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【治承~文治の内乱 vol.29】 頼朝、武蔵国へ

頼朝、江戸重長を調略する

房総半島の国々、安房あわ上総かずさ下総しもうさの三国をほぼ制圧下におき、挙兵した当初に比べれば段違いの勢力を持つに至った頼朝でしたが、千葉常胤ちばつねたねが本拠地として勧め、河内源氏かわちげんじにゆかりが深い鎌倉の地へ行くには、まだいくつかの障壁がありました。

その最大の障壁となったのが、武蔵国むさしのくにに割拠する武士団、とりわけ秩父党ちちぶとうと呼ばれる大武士団です。秩父党は畠山重忠はたけやましげただ河越頼重かわごえしげより江戸重長えどしげながなどに代表される武士団で、彼らは三浦氏と戦って、一度は頼朝に敵対した勢力だっただけに、今までのように一筋縄ではいかないことが予想されました。

例え彼らを避けるように下総国から海路で相模国へと渡って鎌倉へ行けたとしても、相模国の大庭景親おおばかげちか率いる鎌倉党と武蔵国の秩父党や中小武士団などの挟撃に遭う可能性が濃厚でした。要するに、頼朝たちはこの秩父党などの武蔵国の武士団をどうにかしなければ鎌倉への道は開けなかったのです。

これは治承じしょう4年(1180年)10月はじめの武蔵国の主要武士の割拠図です。ここに示されているのはほんの一部で、武蔵国には相当な数の武士が割拠していました。そしてここに挙がっている武士たちを見てみると、石橋山や衣笠きぬがさ城で頼朝勢に敵対した者がかなり多くいるのがわかります。
なお、この図でオレンジ色に囲われている武士たちは俗に武蔵七党むさししちとうと呼ばれる中小武士団を形成していた者たちです。武蔵七党とは、武蔵国に割拠した7つの中小武士団で、その7つは必ずしも一定していませんが、児玉こだま党・村山党・猪俣いのまた党・西さい党・たん党・横山党・野与のよ党もしくは私市きさい党といった武士団がそれに当たりました。これら武士団を構成する武士たちの勢力はそれぞれ小規模なものでしたが、秩父党とも婚姻関係を結ぶなどして繋がりが深く、集まれば決して侮れない勢力でした。

治承4年(1180年)9月28日。さらなる兵力の増員を図りたい頼朝は、武蔵国の中で大きな勢力を持つ江戸重長にターゲットを絞って使者を遣わしました。この時頼朝は重長に、
「お前は大庭景親の招集に応じて石橋山の戦いに参戦したが、(以仁王もちひとおうの)令旨を守って私に従いなさい。畠山重能しげよし小山田有重おやまだありしげも在京して不在であるから、今は武蔵国においてそなたが棟梁である。私はもっぱらそなたを頼みとしているから、日ごろよしみを通じている武士たちも率いて参上せよ」
と、一度敵対したことを不問にした上で味方となるように伝えましたが、これで重長が動くことはありませんでした。そこで頼朝は下総国の葛西清重かさいきよしげに使者を送り司令を出しました。
大井おおいの要害を見回ろうと偽って、重長を誘い出し討ち取ってしまえ・・・」
この大井の要害というのは、太井ふとい川(※1)沿いにある守りやすい地勢の険しい場所のことで、下総国方面から東京湾沿いに武蔵国へ敵が侵入してきた場合、その侵入を防ぐポイントとなる場所でした。
そしてこの司令を受け取った葛西清重は、下総国の葛西御厨かさいみくりやを本拠地とした武士で、江戸重長と同じ秩父党でしたが、この時すでに頼朝方に味方することを表明していたのでした。
ちなみに、この時頼朝に味方することを表明していた秩父党の武士としては、武蔵国豊嶋庄としまのしょうを本拠とする豊嶋清元としまきよもとがいました。清元は清重の父にあたる人物です。

ところで、なぜ頼朝は江戸重長と同族の葛西清重にこのような司令を出したのでしょうか。これについて『吾妻鏡』では、「清重は二心を抱くような人物ではなかったため」と、あたかも頼朝が清重に全幅の信頼を置いていたかのような理由を記します。確かに清重は頼朝と旧知の仲であるのか、かねてより深い信頼関係にあった可能性がありますが、理由はそれだけではなかったのが『吾妻鏡』を読み進めていくとうかがい知ることができます(下節の江戸重長の参陣を参照)。

先でも述べたとおり、少しでも味方を増やして他の武蔵国の武士を取り込みたいと考える頼朝は、武蔵国で大勢力を誇っている江戸重長をなんとしても自軍に取り込んで弾みをつけたかったのです。つまり、この時本当に清重に重長を討たせようと頼朝は考えておらず、清重を通じて従わなければ討つことも辞さない姿勢を重長にほのめかすことでその翻意を促そうとし、同族である清重からなら聞く耳を持つであろうことも読んだ上で司令を出したのです。もちろん、清重の方としても頼朝の真意はわかっていて、その司令は実行せずに重長の説得にあたりました。おそらく清重の父・清元も一緒になって説得したのでしょう。

佐々木兄弟の帰参

治承4年(1180年)10月1日。頼朝の姿は下総国府鷺沼さぎぬまの宿所(※2)にありました。すると、そこへ石橋山で散り散りになっていた武士たちが続々と訪れてきました。その中には挙兵以来数々の戦功を立てていた佐々木兄弟(定綱さだつな経高つねたか盛綱もりつな高綱たかつな)もいました。

佐々木兄弟は石橋山の戦いのあと、渋谷重国しぶやしげくにのもとへ身を寄せていました。渋谷重国といえば石橋山の戦いで大庭景親方として参戦していたため敵方ではあったのですが、佐々木兄弟の父・佐々木秀義ひでよしが渋谷氏の娘と婚姻していて、長年佐々木兄弟も重国のもとにいたこともあって、重国は佐々木兄弟を庇護したのです。

石橋山の戦いから間もない頃、このようなことがありました。大庭景親が渋谷重国のもとを訪れ、
「佐々木太郎定綱をはじめ兄弟四人は武衛ぶえ(頼朝)に属して(朝廷に)弓を引いた。この罪科は許されるものではない。よって彼らの身柄を探し出す間、その妻子を囚人とすべきである」
と言ってきたのです。これに対して重国は、
「これらの者たちは年来の約束があるため、こちらで庇護してきた者たちであるが、この度彼らが旧交を重んじて源家へ参上するというのを止める理由はない。この重国は貴殿の催促に応じて、外孫の佐々木五郎義清よしきよとともに石橋山へ向かったというのに、その功績も顧みずして、定綱らの妻子を捕らえよと命令を受けるというのは、われの本懐ほんかいではない」
と景親の言い分をはねつけたのです。さすがの景親も重国の言い分に物言うことはできずに帰っていったといいます。

重国は頼ってきた佐々木兄弟を喜び迎えましたが、人目をはばかるため倉に匿いました。そしてそこへ膳を運び、酒を勧めて労をねぎらいました。
しかし、そこに二郎経高の姿はありませんでした。重国は二郎はどうしたのか問うと、定綱が答えて、
「こちらへ来るように誘ったのですが、思うところがあると言って来なかったのです」
重国は、
「経高を我が子のように思って年久しいというのに。先日武衛の許に参るというのを我は止めたが、それでも二郎は武衛の許へ行ってしまった。そして戦に敗れた今、この重国の心中を恥じて来なかったのであろう」
と言って、すぐに郎等をあちこちに遣わして経高を捜させました。こうした重国の温情に感動しない者はいなかったといいます。

その後、佐々木兄弟は頼朝が房総で再起を図っていることを聞き及んで、再びこちらへと参上してきたのでした。
またこの時、佐々木兄弟はある人物も一緒に頼朝のもとに連れてきていました。その人物とは醍醐禅師全成だいごぜんしぜんじょうという法師です。この法師は幼名を今若丸いまわかまるといい、源義朝よしとも常盤御前ときわごぜんとの間に生まれた子でした。つまり、頼朝にとって異母弟にあたる人物だったのです。

なんでも全成は京都で頼朝に以仁王の令旨が下されたことを聞き、修行に行く体で醍醐寺だいごじを抜け出し、その途中で渋谷重国のもとへ向かう佐々木兄弟と出会って、この度ともに参上してきたということでした。

頼朝はこれを聞き、平治の乱以来の兄弟の再会に涙を流して喜んだといいます。こうして頼朝の許には、石橋山で別れた者や新たな人材も加わって、着々と勢いをつけていったのです。
 

江戸重長の参陣

治承4年(1180年)10月2日(『吾妻鏡』)。
頼朝らは千葉常胤ちばつねたね上総広常かずさひろつねらが調達した舟に分かれて乗り、大井・隅田すみだの2つの川を渡っていよいよ武蔵国へと入りました。
この時点ではまだ江戸重長や河越重頼、畠山重忠らの態度が不確定でしたが、渡河、入国に踏み切ったのです。

武蔵国ではかねてより味方として参上することを表明していた葛西清重や豊嶋清元、足立遠元あだちとおもとといった武士たちが迎えにきました。
この足立遠元という者は武蔵国足立郡に本拠を持つ武士で、かつて平治の乱では源義朝に従って戦い、頼朝の腹心である藤九郎盛長とうくろうもりなが(安達盛長)は、この遠元にとって年下の叔父だったとも言われており、頼朝とは縁のある武士だったようです。

さて、この頼朝の武蔵国入りは、武蔵国の武士ばかりでなく、関東地方の武士たちにも衝撃を与えたらしく、頼朝のもとへ関東各地から武士たちが馳せ参じてきました。

その中で、下野国都賀郡つがぐん小山郷おやまごう(現在の栃木県小山市城山町付近)を本拠地とする小山政光おやままさみつの後妻であった寒河尼さむかわにという女性が、この年14歳になる若者を連れて参上してきました。
この寒河尼は、下野国の豪族であった八田宗綱はったむねつなの娘で、かつて源義朝が下野守だったこともあってか、頼朝の乳母となったことがある、やはり頼朝とは縁のある人物でした。そして今回一緒に連れてきたのは政光と彼女との間に生まれた末子で、ぜひこの子をお側近くに仕えさせてほしいと頼朝にお願いしてきたのです。これは事実上、下野国で大きな勢力を誇る小山氏が頼朝に味方したことを意味していました。

頼朝は父・義朝や昔の事を寒河尼と懐かしく話した後、その子を召して元服させ、自らの烏帽子を取って授けました。そして偏諱へんき(自分の諱の一字)を与えて、「宗朝むねとも」という諱としました。この若者こそ、後に結城ゆうき氏の氏祖となる結城朝光ゆうきともみつです。(この時はまだ小山(七郎)宗朝で、「結城朝光」と名前が変わるのはもう少し後のことになります)

こうして、南関東ばかりでなく、北関東からも武士たちが頼朝のもとへ馳せ参じてきている状況で、ついにこの人物が頼朝のもとへ参上してきました。秩父党の一端を担っていた江戸重長です。

重長は衣笠城攻防戦において、三浦義明みうらよしあきを討ち取った張本人だけに、三浦の人々にとっては大変遺恨のある人物でしたが、頼朝はそんな三浦の人々に諭しました。
「重長は源家に弓を引いた者であるが、勢力のある者を登用しなければ我々の宿願を果たすことは難しい。お前たちが私に忠誠を尽くそうというのなら、これ以上重長を恨むではない」
この頼朝の言葉に三浦の人々も従い、陣では重長と対面して居並びました。

ちなみに、先の節で“頼朝が重長を本気で討とうと考えていなかった”ことを述べましたが、『吾妻鏡』の

源家げんけに射奉るといへども、有勢ゆうせいともがら抽賞ちゅうしょうせざれば、ことに成り難きか

『吾妻鏡』治承4年10月4日条より

(現代語訳)
源家に弓引いた者であっても、勢力を持つ者を賞さなければ、事の成就は難しいであろう

という記述で頼朝の本音、真意がわかります。
実はこの時、すでに平家主体の東国追討軍が編成され、間もなく都から東国へ下ってくるという情報に接していた頼朝は、はじめて平家本軍と戦うだけに兵力をできるだけ減らさず、むしろ増員しておきたいという事情がありました。だからこそ勢力のある江戸重長は討たずに登用しておきたかったのです。

なお、江戸、河越、畠山の態度がはっきりしない状況で、見切り発車するかのように頼朝が武蔵国に入国したのも、早く鎌倉へ入って平家本軍迎撃の態勢を整えておきたいという事情もあったものと思われます。
結果的に頼朝の武蔵入国が江戸重長にプレッシャーを与え、決断を促すことにも繋がったのです。

一方、頼朝方へついた重長としても、頼朝に味方したからには早くその信任を得るために、武蔵国での先導を努めて尽くしました。大きな河川の多い武蔵国では多勢で川を渡るにも一苦労だったため、重長は川に浮橋などを渡して、頼朝勢の進軍を助けました。そして、頼朝一行は無事に武蔵国の国府(東京都府中市)に到達。武蔵国衙こくがのすぐ隣にあった六所明神ろくしょみょうじん(今の大國魂神社おおくにたまじんじゃ)に参拝しました。これは頼朝によって武蔵国府が掌握されたことを意味していました。

注)
※1…太日川とも。かつて渡良瀬川は東京湾に注いでおり、この下流域での名称。現在の大体江戸川にあたります。
※4…場所不明。今の千葉県習志野市鷺沼付近とする説、東京都葛飾区新宿付近とする説などがあります。

(参考)
上杉和彦 『源平の争乱』 戦争の日本史 6 吉川弘文館 2007 年
川合 康 『源平の内乱と公武政権』日本中世の歴史3 吉川弘文館 2009年
上横手雅敬・元木泰雄・勝山清次
『院政と平氏、鎌倉政権』日本の中世8 中央公論新社 2002年
石井 進 『日本の歴史 7 鎌倉幕府』 改版 中央公論新社 2004年
関幸彦・野口実 編 『吾妻鏡必携』 吉川弘文館 2008年


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およまる
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