【読書】きげんのいいリス トーン・テレヘン 訳 長山さき
ここに書かれているのは
きっと、大人になればなるほど忘れていく原色の自分について
だれも答えてはくれないし、だれも答えなど知りもしない
自分だけの〈願い〉と〈疑問〉が隠されたどうぶつたちの物語
◆あらすじ
〈叶った夢・叶わない夢・叶っている夢〉
一度でいいから、ひっくりかえる。そんなサギの〈願い〉は、
原題『ほんとんどみんなひっくり返れたーBijna iedereen kon omvallen』のタイトルを象徴する一話。
冒頭に持ってこられたのに納得できます。
傍から見ればいとも簡単に見えるその〈一歩〉は、本人にとって苦しく、恐ろしいもの。
こどもが初めて、補助輪を外して、自転車を漕ぎだせるようになるまで。
体育の授業で転倒に震えながら、逆上がりを練習するこどもたち。
そのときは、親や、先生がついていたけれど、おとなになった私たちはどうすれば〈一歩〉を踏み出せるのだろう。
ほら穴だと思い込んでいるイカのいる場所は、「おけ」の中。
一人寂しい誕生日を迎えたイカは、まるで自己暗示のように“ぼくはいつだって思いとどまるんだ。いっつもだ。”と言い聞かせてる。
「声をあげればいい」というのも、イカは自分でよくわかっている。
けれど、あげることができない。この話も、他人事のようでないのが恐ろしいところ。
サギとイカが願いを叶えられずにいるなか、ハリネズミは「宙に浮かぶ」という夢を叶えます。
サギは〈思い込み〉で、イカは〈自己暗示〉で、切望する願いを叶えられずにいる。
ハリネズ一方ミは〈鮮明にイメージ〉して、願いを考え続けることで「宙に浮かぶ」夢を叶えます。
リスはと言えば、どうしてもアリに旅に出てほしくないという願いを〈願わずにはいられない〉でいます。
対照的な動物たちが、それぞれの〈願い〉を取り巻く4つのお話。
感じたのは、世界中の誰もが〈いちばんの願い〉をもっていること。
持っていないという人は、すでに〈願い〉がかなっているのであり、失いかけたり、失ってから初めて気づくのかもしれない。すでに叶っていた〈願い〉について。ということでした。
また、唯一夢を叶えたハリネズミはがしたことと言えば〈失敗を想像せず待った〉こと。
〈待つ〉とは、時間を超越することなんじゃないかと思う。
〈とても長い間〉は一日かもしれないし、一分かもしれない、殆ど一生かもしれない。
「自分の願いが叶うのは後どれくらい後なんだろう」と考えることをやめること。
〈願い〉から余計な要素がどんどんどんどん剝がれ落ちて行って、最後には純粋な願いと、願う自分だけが残る。
そうなったとき、〈願い〉が叶うということがどうぶつたちの〈願い〉から見えてきます。
〈個性という造語〉
「あなたを一言で表してください」
「あなたのことを説明してください」
「自己紹介をしてください」
汗をかき、動悸までしてきそうなこのやり取り。
自分を自分だと証明しなければならないこのやり取りも、私たちにはお馴染みのもの。
カメは鳴き声を持っていない。
甲羅を持っているとか、泳げる、とか考えればいくらでもありそうなものだけど、〈鳴き声〉という縛りのなかで〈比較〉すると、途端に没個性的なキャラクターになってしまう。
しかも、それを自分でもそうだと思い込んでしまう。
そもそも個性ってなんだ?そう考えさせられるカメの〈悩み〉です。
そもそも〈個性〉って、求められて発揮するものでも、頑張って会得して利用するものでもない。
誰に説明するわけでもない、自然体な自分のことでは?
LGBTという名称が、社会通念に浸透したのを見ても、〈名前〉がついていない関係性や個人の嗜好への排除意識や、組織、団体、社会、家族での異常視が原因のように思えてならない。
つまりLGBTという名称は、LGBTと称される、称する人のための認識要素よりも、そうでない人たちが納得して、触れやすくするための言葉という意味合いが強いように思える。
「個性」もこれと似た性質の言葉になって、本人のためのものでなく、他人が当人を比較、判断するためのラベルのようになっている現実を思った。
カメの悩みは真っ当なものだと思う。
むしろ、おかしいのは「自分がたしかにカメだって確信がもてる?」という質問の方。
なのに、現実にはこの質問で、人は評価されている。
逆のケースもある。
そう。自分にとっての〈個性〉は、誰かに強制されたり、抑えつけられてもあふれ出てしまうもの。
日記を丁寧につけるのが好きな人、書くのが絶望的に嫌いな人
砂糖や醬油などの調味料はしっかりと計量して入れたい人
噓が着けない人、噓ばかりついている人
せっかちでよくものを落としたり、慌ててちょっとしたミスをする人
完璧主義でものごとが予定通りに進んでいないと途端に不機嫌になってしまう人
仕事の役に立つ・役に立たない
市場価値がある・市場価値がない
将来のためになる・将来のためにならない
こういった打算的な理由のまったくつかない。
どちらかといえば、客観的に他人に説明するのが難しいのが〈個性〉なのではと考えさせられるのです。
〈想像力のすべて〉
なにとでも話ができる。
大真面目に、そんなことができるのかどうか考えてみた。
“できる”そう思わせてくれる一文だった。
紅茶がリスにも話した内容は、匂い、湯気、冬。
そのすべてと、紅茶はよく馴染んでいて、そのどれとも、どこかで関わっている。
大げさだと思うかもしれないけれど、
そんな風に、モノとヒトと関わたらどんなに素敵だろうなと思う。
そこは、孤独とは間反対に位置する場所だとも思う。
〈感想文〉
「もう一度、悩んでみませんか?」
そんな、メッセージがピッタリだと思えるほど、社会生活を送っていく中で、日々かわし、いなし、さけ、見なかった、聞かなかったことにして素通りしていた、たくさんの物語に出会る一冊です。
原題『ほんとんどみんなひっくり返れたーBijna iedereen kon omvallen』のタイトルが正に、物語の性質を決定づけているといった印象を受けました。
今回触れなかったお話に、〈知っている〉ことが多すぎるアリは、頭が重くて動けなくなってしまうという話があり、対照的にはゾウは空を飛べてしまうというお話があります。
ゾウが飛べるのは、常識や良識によう制約を受けていないからと想像できるのですが、アリの〈頭の重くい理由〉は、大親友である、リスのことを思い過ぎてという描写があり、この物語のメインとなる、リスとアリの友情がありありと描かれる。
〈どうしても旅に出なくちゃならない〉アリは、自身の夢がかすむほどに、巨大な存在である大好きな〈リス〉のことで胸を痛め、もう一歩も動けないほどに頭はそのことでいっぱい。
そんなアリが、まるで年寄りの方の、病気自慢でもするように、どうぶつたちが〈じぶんの痛み〉について語り合ってるところでこんなセリフを言い放ちます。
“「痛みなんてばかげてるよ」「激痛」「激痛ならときどきある。みんながそれを〈痛み〉と呼ぶんだったら、べつにそれでもいいよ”
誰かを大切に思う気持ちには、かならず激痛を伴う。
それが本書の真髄となるメッセージだと、勝手に受け止めております。
随所に散りばめられた暗喩は、おとなであれば、あるほど難しい内容で、こども、もしくは、こどものように柔らかく、どこにも力を入れずに世界を眺めてる人のお力も必要かもしれません。
読む人の読み方では、180度、別な物語に姿を変える。
そんな、まるで物語自体が生きているかのような作品でした。
冒頭の引用。どのどうぶつのものか。。
わかった方は是非、コメントお待ちしてますね。