【読書】 スイートリトルライズ 江國香織
このうちには恋が足りてないと思うの
恋と愛の形って、本当に色々あるんだなぁ。江國さんの小説を読むたびに感じることです。そして、一度読んでしまったが最後、読み終えるまで何もできなくなってしまう……。同じ人間の心の中には相反するものや矛盾するものが共に存在している。多重人格なのではなくて、異なる一つ一つがその人の要素。それが、こんなにも自然に書かれていることのいつも感動します。そんな複雑な人の素敵な葛藤に思ったことを書いてゆきます。
あらすじ
岩本瑠璃子と岩本聡は3年前に結婚した。瑠璃子は人気のテディベア作家で、イギリスへの遊学の経験がある。
聡は外資系企業に務めるサラリーマンだ。夫婦生活には性行為がない・持ちの通い合うことがない、それでもなにも不満がないと、生活を続ける二人に変化が訪れる。
非売品のテディベアを彼女に贈りたい、と言う春夫と出会う。まっすぐな彼女への愛に、人形を譲ることにした瑠璃子は、近所のレンタル屋で春夫と再開する。そのようにして、何度か顔を合わせた後、春夫の不意のキスによって、男女の関係へと発展する。
家では部屋に籠り、インターネットゲームにうちくれる夫、会話は相づちと簡単な返答のみで、自分に興味を失っているとしか思えない夫。夫とは異なる異性の春夫へ次第に惹かれてゆく、瑠璃子だった。 一方聡は、学生時代のサークル仲間たちと交流を再開し始めた。後輩のしほは学生時代から、聡へ思いを寄せていた後輩だった。徐々に関係を深めていく聡は、窮屈な瑠璃子との夫婦間にはない解放感と、自由を感じる。瑠璃子の愛は、聡にとっては重荷だった。会社の机や椅子にまで嫉妬する瑠璃子に辟易としていたのだ。肉体関係も持ち始めると、それまでちぐはぐだった夫婦間は、意外な方向へと進んでゆく。
不倫という、一時的で非現実的な関係は、瑠璃子と聡に、お互いの存在へと目を向けさせてゆく。
二人の不倫は今のところばれずに、日常が続いている。この二人の関係に、愛が見いだせなくなったその時は、夫と心中しようと思う瑠璃子だった。
おなじ場所でなら、ちがうことをするのはとても心地がいいー見たいときに顔を見られるし、触りたいときに体に触りにいかれるから。
家に帰ると、すぐさま部屋に鍵をかけて、インターネットゲームに明け暮れる夫。確かに、なにも悪いことをしてるわけじゃない。きちんと仕事に行ってはお金を稼ぎ、妻に暴力をふるうわけでもなく、人付き合いが下手で物静かな夫。
悪いことはしてないけれど、如何に残酷なものを押しつけているのかと感じました。聡にとって私は何なのだろうと、瑠璃子が感じるのは自然ではないとすら感じると思うのです。同じ空間に居ながら、まるで交わることのない孤独が、瑠璃子にとってつらく苦しいものとして描かれてゆきます。
子供は欲しくなかった。瑠璃子にとっては、二人という数字こそ重要、なのであって「禁じられた遊び」のミシェールとポートレットのように、聡と寄り添って暮らして生きたいだけなのであった。
江國さんの作品に登場する女性たちは、子供を作ることが人生の目的でない人が多いような気がします。結婚して、子供を作って、子育てして……とい人生が当たり前だと思っている人にとって、この人たちは特殊なのかと思う人もいますが。「二人でいること」それを大切にする人もまたいます。
「寄り添って暮らしていきたいだけ」は、本当は難しいことなのではと感じてしまいます。二人でいることが当たり前になってしまうのが怖いんだろうとぼくは思います。「禁じられた遊び」の二人が引き裂かれていったように、人と人の関係性には必ず限界があるのではないかと感じるからです。夫婦とはある意味で男女関係の「終点」ともいるのではないでしょうか。
彼女の情熱にはときどきまいる。浮気をしたことは一度もないーしかしそれにもかかわらず、もしもあなたが浮気をしたら、私はその場であなたを刺す、と妻はたびたび宣言している。
態度の変化。それが瑠璃子を苦しめていることに聡は気づかない。また、態度の無変化。それが聡を苦しめているころに瑠璃子は気づかない。考えて見たら男女がずっと一緒に生活することってどれだけ難しいのだろうと思います。落ち着いてさっぱりとした関係を求める聡にとっては、重たいものを求める瑠璃子ですが、それだけが瑠璃子の唯一の希望という矛盾。
お互いに何か、悪いことをしているわけではないのに。お互いの希望が異なることで、二人は悲しんだり、苦しんだりしながら生きていかなければならない。聡と瑠璃子は、本当にどこにでもいる夫婦なんです。これらの苦しみを抱えているという意味において。
このうちには「恋」が足りていないと思うの
冒頭で引用した一文です。瑠璃子が望む恋とは、きっとはるか前に、聡の中で、形を変えてしまったモノなのではないかと感じます。言い方を変えれば、「当たり前ではないもの」ではないでしょうか。
二人が一緒に生活しているという奇跡。そんな「当たり前ではないこと」に関心を失ってしまった聡に対しての淡い期待。読んでいると苦しくなってきます。
どういうわけだかわからないけれど、私は聡に対して飢餓状態なのだ。ーここにあるのは愛でなく飢餓なのだ
愛のように見えるモノ。その実は際限のない空腹だとしたら……。または、純粋な愛の先にあるものが、絶え間ない飢餓状態なのなら……。愛なんてと考えてしまいます。
嫉妬は女性にするものとは限らないのよ。-私はあなたの会社にも机にも、上司にも同僚にも、飲み屋でたまたま隣にすわった女にも嫉妬する。
途轍もなく情に深い女性、だというふうには思いませんでした。聡が瑠璃子に対して向けなかった関心の数々が、そういったモノに向けられること。それが悲しいのだと思います。「無関心」ときには、関心を必要とする人にとって、とっては一番傷つくことなのかもしれません。
大切なのは日々を一緒に生きるっていうことだと思うのー一緒に眠って一緒に起きて、どこにでかけてもまた同じ場所に帰るっていうことー大切なのはそのことだと思うの。
「一緒に」そんな悲痛な叫び。二人はいつ一緒を失ってしまったのかと疑問になります。心の通う何かがあれば、二人は幸せになれるのにと思うのです。心を通い合わせようと、躍起になっていた関係の初めのころ。時間がたって、慣れてしまうとなくなってしまうもの。それに対して、ぼくらは向き合わなければならないのだと感じます。
淋しさはたぶん人間の抱える根源的なもので、聡せいではないのだろう。自分が一人で対処すべきもので、誰かにーたとえ夫にでもー救ってもらえる類のものではないだろう。
「淋しさ」は人間という生き物が抱えてる一つの要素なのかもしれません。本当に淋しいときは、例え、10年来の友達でも、家族でも、恋人でも癒してはくれない。それは、心のずっと奥のほうでいつも眠っていて、波のように満ち引きを繰り返し、月のように満ち欠けを繰り返す。淋しさに抗う法をぼくは知りません。
なぜ噓をつけないか知ってる?人は守りたいものに噓をつくの。あるいは守ろうとするものに
「噓」という言葉の持つ甘い響き。スイートリトルライズ、意味は「甘くて小さな噓たち」。そこに、誠実であることや、真摯でることが必ず必要ではないんだなと感じました。瑠璃子と、聡が抱えている噓の数々。それでも、二りを繋いでいるのが、「噓」なんだなぁと思うと、堪らなくいとおしさを感じるのです。
まとめ
「愛」とはなんて厄介なものなんだろうか……。そして、なんて汚くて美しいんだろうか。そう感じます。何を差し置いても大切にする関係。その関係を守るためにつく噓。そんな、あれやこれやがとても美しくて感じるのです。
「スイートリトルライズ」。最後まで読めば、誰のため、なんのための「甘くて小さな噓たち」なのか分かります。不倫をする二人の心にいるひと。それは、皮肉にもお互いだったのだから。
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