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【読書】 二百十日 夏目漱石

 読書にも色々と種類があると思う。その中には、読めば読めほど、作者の輪郭がぼやけ、違った扉の前に立たされるような作品と作者がある。

 「二百十日」は社会の一遍を切り取った作品だ。樋口一葉が「にごりえ」で、尾崎紅葉が「金色夜叉」で……。その他、同時代を生きた作家たちが、万華鏡のように様々な景色を見せてくれる。

 ただ、小説がぼかして書いた世界をああでもない、こうでもないと読み取るより、物語を物語のまま読んでみるには、良い作品だったと感じます。


あらすじ

 豆腐屋の倅と生まれ、金持ち連中が幅を利か世に痛烈な批判を加え、世を厭う「圭さん」。圭さんの同行者である、中流階級の「碌さん」は二人、阿曾山の火口を見に行こうと連れ立って旅行していた。圭さんは金持ち連中の、おごりや自分たちに都合の良い世を作り、生活してることを批判し、豆腐屋やうどん屋、労働者として精一杯働く人々の平和と幸福を願うべきたと主張する。碌さんはそんな圭さんの行き過ぎた思考や、過激な考えを聞くことに徹していた。
 旅路を共にする中で、質実剛健な圭さんの振る舞いに、次第についていけなくなる碌さん。便利さや、ある程度の恵まれた生活を享受していた碌さんにとって、贅沢な食べ物を好まず、質素な食事を好み、
規則正しい生活を好み、肉体を酷使する碌さんの生活を強いられることは苦痛だった。
 雨に灰が混じり、風に打たれる、阿蘇山を登る二人は、遭難してしまう。碌さんは圭さんに助けられるのであった。


圭さんと豆腐屋主義

「豆腐屋だって、肴屋だってーなとうと思えば、何にだってなれるさ」(中略)「頭ばかりじゃない。世の中には頭のいい豆腐屋が何にいるか分からない。それでも生涯豆腐屋さ。気の毒なものだ」 

 豆腐屋の子供として、生まれた「圭さん」は屈強な体を持ち、さっぱりとした性格を持っている。一方、頑固で、自分で決めたことを是が非でも押し通すので、友人の碌さんを困らせてしまう……。

「こころ」にも、Kと先生の対照的な人柄が描かれています。繊細で傷付きやすい人柄と、奔放で野太い性格の登場人物たち。互いに、何かを補うような友情が書かれているのだと思います。「二百十日」では、くすっと笑ってしまえる会話のやり取りが続いていきます。

 圭さんは、金だけもった、人間性の低い人間たちは、みんな豆腐屋にでもしてしまえという。「豆腐屋主義」。労働のなかで、精一杯働く人間たちが、浮かばれる世の中を作るために奮闘しているのです。

碌さんと華族主義

 華族にはなれないまでもお金を持っている碌さんは、圭さんの執拗な、質素さに辟易させられています。でも、どこかで、贅を尽くしたものへの虚しさを感じている。

 実際に阿蘇山に登っていくと、地位もお金も何の役にも立たなくなってしまう。自然の圧倒的なパワーの前に打ちのめされた碌さんは、圭さんの力強さを妬ましくも羨ましくも思う……。人間という等しい立場を自覚する経験をしてゆく。


意志薄弱

僕の意志の薄弱なのにも困るかもしれないが、君の意志の強固なのにも辟易するよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々として命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね。

ここでも「意志薄弱」が出てきます。

漱石の文学感に「意志薄弱」というテーマが流れ続けていたのだなぁと思います。

「精神的に向上の無いものは馬鹿だ」Kに言い切らせた漱石が、「意志の強固なのにも辟易するよ」と、碌さんに言わせる。この矛盾的な人物たちが意見を交わすのは、「こころ」では見られなかった物語でもあって……。


まとめ

 漱石が書いた76ページの短編小説『二百十日』は、相反する人間の友情が成立する、漱石作品にしては明るい小説です。

 阿蘇山の火口へ、道なき道を行く二人の人間像からは、ほかの作品に見られなかった希望的な未来へ向かってゆく人の姿を表しています。相容れなかった、二つの道の最後に誰かの死があるわけではない。

 ただ、他の作品に流れるような、胸を掴まれるものがなかったのも確かでした。「死」を扱わずとも、内面にまで強く響く作品にするにはどうすればよいのか……。

 そう考えさせられる作品でした。

 

 

 

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紬糸
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