【読書】はつ恋 ツルゲーネフ
『自分を犠牲にすることを、快く感じる人もあるのものだ』
誰にでも、人生のなにがしかのタイミングでやってくる「はつ恋」。200年も前のロイアはモスクワ。貴族階級の16歳の少年にも、例外なくはつ恋はやってくる。誰もが通り過ぎて行く「はつ恋」というイベントに対して、人間の様々な機微や、感情をおそろしまでに洞察した1冊です。少年と少女が大人になってゆくということ。恋と愛に犠牲がつきまわることへの感想と考察を記述したいと思います。
あらすじ
酒場に集まった中年の老人たちは、「はつ恋」を話題にしていた。一人の男性の「はつ恋」で話に差し掛かると、口頭での説明は困難を極めるとして、手帳に詳細をまとめ、次回その手帳を見せるという約束でお開きになる。手帳を読むことになった中年男性たちは、衝撃を受ける。
時は、1833年の夏。「私」が16歳の話である。ロシアはモスクワから、別荘へと移り住んだ一家の隣に老婦人と美しい娘ジナイーダが越してくる。
う激しい美貌を持ったジナイーダに恋に落ちたぼくは、彼女の異様とも言える生活に足を踏み入れる。
彼女との自宅には、ぼくと同じように彼女に恋した男たちが5人も毎晩のように集まっていた。我儘で高慢とも思える彼女の行動は、自分を慕う男たちを、犬のように幅らせておきたいものだった。男たちもそれを承知で付き合っていた。
隣人の夫人からお金の工面などを頼まれるようになった一家は、家族での付き合いが始まる。しかし、それと同時にジナイーダの態度が一変する。我儘で傲慢だった彼女は慈愛と優しさに満ちてゆく。彼女は恋をしたのだ。何とかして、彼女の恋人をつき止めようとする僕だったが、その相手とはぼくの「父」だった。
ぼくのはつ恋は幕を閉じ、父と彼女の交際が母に明かされたため、一家はモスクワへと戻る。モスクワへ帰ったぼくは、いるはずのないジナイーダが父と遭い、その手に鞭を打たれているのを目撃してしまう。数年の後に父は病気で死に、ジナイーダは別の男性と結婚し、出産後数日間の後に死んでしまう。彼女の母の臨終に立ち会ったぼくは、恋の先にあるものを見据えようとしていた。
恋の始まるとき
『あのひとにとって、わたしはなんだろう?』
「誰かにとってのわたしはという存在を考え始める」そんな、経験をきっと誰しもがしてきたのだと思います。血のつながりもない、赤の他人の興味や関心が知りたくなる。そこに自分が含まれているかどうかが、この世で一番大切なことになる。肉体にも精神にも訪れる変化は、背中が無図痒くなる実感を感じさせる描写で物語は始まります。
得体の知れない生き物ー父
父としては私や家庭生活なんぞを、顧みるひまがなかったということである。父は、ある別のものを愛していて、その別のもので、すっかり堪能していたのである。-『取れるだけ自分の手でつかめ。人の手にあやつられるな。自分が自分みずからのものであることー人生の妙手はつまりそこだよ』
財産目的で母と結婚した、若く美男子の父は、「ぼく」にとって父を超えて、同性としての魅力に溢れた男として、目に映ります。少年にとって親の年齢や思考・あり方は内面に大きな影響を与えるものなのでしょう。ある時には「超えられない壁」として、またある時には「超えるべき壁」としてその姿を表します。自分が恋した異性を父に取られる。狂気じみたものも、ぼくの父への畏怖の念によって、受け入れるべきものとして実感されてゆく。
この「父」の存在が、ぼくにとっても。ジナイーダにとっても重要な意味を担うことから、父について考えないわけにはいかなくなってゆきます。
恋は犠牲を伴う
わたし、こっちで上から見下ろさなくちゃなならないような人は、好きになれないの。わたしの欲しいのは、向こうでこっちを征服してくれるような人。
21歳のジナイーダが恋愛感をあらわにする場面です。現代でいう「肉食男子」が好きといったところでしょうか。もっと深い部分では、自分を犠牲にしてまでも彼女にすがる男ではなく、彼女自身が自分を犠牲にしてまでも愛したいと思える人のことを指しています。
恋とは落ちた方は悲惨なのかもしれません。それも、相手が意図もしていないのに、こちらが勝手に恋に落ちるといった場合には。また、恋愛感情が少なからず、自他の相手に上下関係を作ってしまうこと…つまり、「惚れたほうが負け」なんて言葉があることは必然なのかもしれません。
まだ、好意の伝え方も、好意を持った相手との付き合い方すらわからない無防備な状態に、突如訪れる、はつ恋。誰にとってもかつては未知だったもの(知ってからも皆等しいものとは限らない)だからこそ、幾度となく訪れる恋の中でも特別な意味を持つのかもしれません。
止めてはおけないもの
そこが、詩のいいところなのね。つまり、この世にないことを、言ってくれる。しかも、実際あるものより立派なばかりでなく、ずっと真実に近いことをまで、言ってくれのだもの。…愛しさでやまぬ胸なればーほんとに、しまいと思っても、せずにはいられないんだわ!
ジナイーダの恋が、周囲の確信に変わる場面です。人を変えてしまう「恋」自分が自分でいられなくなることに対する悲鳴は、素直に美しいと感じるとともに、それまでの自分から自然と引きはがされてゆく「痛み」も伴っているのだと思いました。
他人からみれば
いったい君は、いま健康ですか?果たしてノーマルな状態にありますか?君がいま感じていることは、君のためになりますか、いいことですか?
そんなことわかるわけない!-そう答えたくなる問答でした。他人から見ても、自分から見ても異常なことは分かっている。それでも、誰にもどうすることもできないんだと実感させられるのです。
裏切りと迎合
「なぜあなたは、僕をおもちゃにしたんです?……なんのために、僕の愛が入り用だったんです?」
恋は厄介なもので、例え自分に気持ちが向いてないと分かっていても、辞めることはできない。恋されたものは、もっと厄介だろう。そこには「裏切り」か「迎合」しか選択肢がないのだから。避けられない、人との間を、はっきりときり取った場面に胸を打たれます。
異常と正常
『これが情熱というものなのだ!……ちょっと考えると、たとえ誰の手であろうと……よしんばどんな可愛らしい手であろうと、それでぴじゃりとやられたら、とても我慢はなるまい、憤慨せずにはいられまい!ところが、一旦恋する身になると、どうやら平気でいられるらしい。……それを俺は……それを俺は……今の今まで思い違えて……』
恋の前には、世間一般の善悪なんて消し飛んでしまう、そのことに「ぼく」が気づく場面です。少年が愛だの恋だのと考えて来たものが崩れ落ちてゆく。DVを受けているのに、夫を愛してやまない妻。恋人が浮気していようと許す女や、男の心理も、そこに万人によって異なる愛の形があるからなのだろ思うとぞっとします。どこまでも割り切ることができない生き物ーそれが人間なのかもしれません。
まとめ
そうか、これが解決だったのか!あの若々しい燃えるような、きららかな命が、わくわくと胸を躍らしながら、いっさんに突き進んでいった先は、つまりこれだったのか!
最後には、父も彼女も彼女の母も死に、「ぼく」だけが取り残されるという結末は何とも後味の悪いものに感じました。しかし、実際の恋に、すべてを投げ出してまで突き進んだ「愛」に、後味の良いも悪いもあるのかと問われれば、黙るしかありません。それほど不思議な納得感の残る作品だったのです。
恋をするもの、恋をされるもの、愛情を与える人、愛情を受け取る人。「神のいたずら」と言えば聞こえはいいですが、ここまで不均一でバランスのないものもまたありません。ぼくたちは「愛する者」にも「愛されるもの」のどちらにだってなれる。それでも、いつも望む側に立てるわけではない。そんな事実が、『はつ恋』のなかに横たわっているのだと感じました。
当たり前のように存在しているのに、当たり前のようには理解できない。どうやら、そんな矛盾で世界は溢れているように感じます。万人の解決に繋がる共通の鍵はないのかもしれないけれど、一人一人の解決に繋がる要素ならどこかにある。そんな要素を持っている作品だからこそ、長い時を越えて、人々に読まれる作品なのではないか。ひしひしと感じた一冊でした。