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中国・浙江省のおもいでvol,10

『星と夢』

 ガシャン!Oが円卓に倒れこむ。フェイも泣きつかれて、ぼくの肩にもたれて寝息を立てている。いつの間にかテーブルに積まれていたビールのダースが6つになっており、そのすべてが空になっている。計144本。壮大な宴は二人が脱落して幕を閉じた。

 「中国のビール、なかなかうまいだろ?」ワンが上機嫌でぼくに語り

 「うまかったけど、もう十分だね」ぼくも笑い返した。

 ぼくがフェイをおんぶし、ワンがOに肩を貸して、店を出た。時刻は22時。「やれやれ、2日目から終電に乗ることになるとはね」ぼくの力ない発言に「馬鹿う言うなよ、これからが楽しいんじゃないか」とワン。あきれてものも言えなかったが、郷に入っては郷に従えだ。ワンについてゆくことにした。

 通りにでると、繫華街はさらに熱気を増していた。あちらこちらの店から湯気が立ち上り、客を呼ぶ声も激しさを増している。日本と変わらない人の営みがあった。金曜日の夜の使い方は万国共通なのかもしれない。

 Oは繫華街を抜け、再び西湖へと足取りを向けた。フェイもOも意識を取り戻しそうにない。20分ほどかけて西湖へたどり着くと、満月がぼくらを待ち受けていた。息を吞むような美しさに打ちのめされる。日中、霞によってかかっていたベールを脱いだ西湖は別の生き物のようだ。

 巨大な湖の全貌を照らすかのように光を落としている月。水面はきらきらと反射し、湖面をぐるりと縁取る柳の葉のシルエットを作っていた。ちゃぷんちゃぷんと水がぶつかり合い、岸に並ぶ小舟たちが上下している。ぼくらは湖を見渡せるベンチに腰掛けた。

 日本での日々を思う。電車に揺られ、人の波にゆられ、毎日毎日同じことを繰り返してきた。次第に季節の移り変わりにも疎くなり、月の満ち欠けを気に留めることもなくなった。無表情で無感動な日々。本当は日常のほんの小さな変化にも生きることの感動が隠されていたのかもしれない。こんな風にゆっくりと何かを考えたことも久々だった。

 「俺たちはいい教育を受けて、使い捨てられる商品になるだけなんだといつも思うんだよ。中国の大学生はバイトをする時間もなければ、こうして西湖をゆっくりと堪能する時間もないんだ。君たち日本人を見ているととても羨ましく思う。」

 「確かに日本の学生は勉強しない。人生の夏休みだとか言っては、授業にも出ず、遊び惚けている。大学を卒業すればゾンビみたいな顔して家と会社を行ったり来たり。ぼくの場合、こんな風に人と遊んだりしないから、今日はとても新鮮だったんだ。」

 「君らを案内する名目があるからね。こんなときでもなければ、遊ばないのは俺も君もおなじさ」

 ぼくらは顔を見合わせて笑った。西湖は人を素直な気持ちにさせるらしい。日本人ともこうして語り合ったことはなかったのに、まるで10年来の友人のように話していることが不思議だった。

 ワンは煙草を取り出し、ぼくに一本渡してから湖に視線を戻した。

 「俺の夢は貧乏作家になることさ。国にいい顔しておだてられてる物書きには書けない、この中国を風刺する小説を書いてやる。だから日本に行く。中国でそんなことを書けばすぐに捕まって、二度とは家に帰れないからね」

 「驚いた。ぼくもだよ。ぼくの場合、社会を風刺するというより、人間を掘り下げてゆきたいんだ。」 

 「西湖に異国の物書きの卵が二人ね。これだけでも十分面白い脚本じゃないか?」

 二人はこの話を物語にすることを約束した。いまだにワンは大学での勉強に追われているため、ぼくが先手をとったことになる。このことを知ったら彼は悔しがるだろうか?

 さらに夜が更けていく。夜空の星は輝きを増してゆき、湖面はきらびやかになっていく。

 ふぁぁとあくびをし、目を擦りながらフェイが目を覚ます。起き抜けに、ぼくの肩にもたれかかれていたことを恥ずかしがり、ベンチから立ち上がった。

 月がぼくらを見下ろしていた。(『中国・浙江省のおもいでvol,10『星と夢』)



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