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くらきを照らす炎 劇場版『鬼滅の刃』と梅原猛『地獄の思想』

 日常という"昼"の仮面を剥ぎ取った内側には、少なからず暗がりがある。逢魔が時、気を抜くと、飲まれる。

 深みに落ちた魂は、自力では浮かび上がれず、遺恨の地に縫い止められ、どこへも行けず苛まれる。やがて地獄に落ち、瞋恚の鬼となって、恨みつらみを撒き散らす。

 善きにしろ悪しきにしろ、強い思いは消えない。消えないからこその苦しみがある。それは時代を超えるテーゼなのだと思う。

およそ輪廻は車の輪の如く
六趣四生を出でやらず
人間の不定芭蕉泡沫の世の習
昨日の花は今日の夢と
驚かぬこそ愚なれ
身の憂きに人の恨のなほ添ひて
忘れもやらぬ我が思い(葵上)

 約600年前、観世大夫・世阿弥は、能という芸術の中で、そのようにもがき苦しむ魂に対し、月のような、淡く儚い光をもって弔った。とめどなく湧き上がる妄執という闇の枷に繋がれたものどもに、語りの機会を与え、夢幻のなかに解放せしめた。

 2020年において、『鬼滅の刃』は、心の奥底に潜む"鬼"とのせめぎあいに苦しむ魂に光を当て、腫瘍を切除するかのごとく、その刃で闇の枷を断ち切った作品なのだと思う。

 お前はお前の前に開けている人生の虚妄さに、おどろきあきれ、ほとんど生きる意志を失ってしまったではないか。お前が、しばしばおちいった愛欲や思想の葛藤は、お前に苦悩と絶望を与え、死へのあこがれを起こさせたり、狂気の喜劇を演じさせたりしたではないか。 ーーお前の心の深いところに地獄が住んでいるのではないか。(梅原猛『地獄の思想』p10)

 鬼も鬼殺隊も、元々同じ人間であり、それぞれに地獄をかかえている。一寸先は闇。ともすれば「そちら側」に落ちるかもしれない危うさの中にある生。それは現実世界のわたしたちにも同じことがいえよう。

「どうして一生懸命生きてる優しい人たちがいつもいつも踏みつけにされるのかなあ」 (竈門禰豆子/吾峠呼世晴『鬼滅の刃』第202話)

 いまも昔も、純粋な魂がありのまま存在するには困難が伴うものだ。闇からの囁きは負い目や不安を齎す毒としてじわりじわりと心身を蝕んでいく。大いなる力に飲まれて生きることもできる。自分を信じ、他者を信じ、未来を繋ぐ意思を選ぶこともできる。しかしその価値観はいつでも反転する危うさをはらんでいる。

 『鬼滅の刃』は、そういったひとつひとつの物語をすくいとり、痛みにカタルシスを与えることで、様々な心のあり方に寄り添った作品であるから、広く愛されているのだろうと思う。

 劇場版『鬼滅の刃』における炎柱・煉獄杏寿郎を思う。ラストシーンの厳しく悲しい別れに打ちひしがれそうにもなるが、炭治郎らとともに、観客であるわたしも彼に思いを託されたような誇らかな気持ちが芽生えた。

 「煉獄」とは、カトリックの教理で、死者の霊魂が天国に入る前に火の試練によって罪の浄化を受けるとされる場所、およびその状態といわれる。

 煉獄杏寿郎の生き様は、己の責務を全うして生き抜くという試練の重みを教えてくれる。地獄の闇を自らの炎で照らし出す勇気を与えてくれる。

 わたしは現在、社会的弱者とされる方々に関わる仕事をしている。目指すべきゴールが見えずもがき苦しんだり、かなりきついことも少なくない。明日にでも自分自身が「そちら側」になるかもしれないという怯えに襲われることもある。

 つい先日、判決について報道されていたが、昨年福祉事務所の元職員が相手方を刃物で刺すという殺人未遂事件があった。記事を読む限り、元職員は責任感を持ちながら職務に向き合う中、周りの協力が得られない状況下で問題を抱え込み、ついに凶行にいたってしまったようだ。

 自分には関係ない、そう言い切れないと思った。わたし自身、地獄に沈みそうになったとき、正しい道を選び取るために、罪へ向かおうとする己の首に刃を向ける勇気があるのだろうかと不安になる。

「悔しくても泣くんじゃねえ どんなに惨めでも恥ずかしくても生きてかなきゃならねぇんだぞ 信じると言われたならそれに応えること以外考えんじゃねぇ!!」(嘴平伊之助/同)

 弱気になる炭治郎を伊之助が喝破したように、煉獄杏寿郎が信じた未来の一部として、彼が愛おしく思った人々の命を少しでも輝かすため、ただひたすらわたしのやるべきことを、一生懸命正しく果たしたいと思う。そういう気持ちが重なって、闇を照らす強く明るい炎になればいいと思う。わたしたちはひとりではないのだ。いまが生き地獄だろうと、誰かの炎に導かれてここまで生きてこれた。そのことを忘れてはならない。

「胸を張って生きろ。己の弱さや不甲斐なさにどれだけ打ちのめされようと、心を燃やせ」(煉獄杏寿郎/同) 

 



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