森見登美彦『四畳半タイムマシンブルース』感想


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前作「四畳半神話大系」の続編
まあ続編と言っても前作が、パラレルワールドというかありとあらゆる主人公「私」の可能性をテーマにした作品で、
大学に入学する際にどのサークルを選ぶかを切り口に自分の理想の薔薇色の学園生活を目指すというもので一つ一つの世界の「私」は別々の存在なので今回の作品も一つの世界線、「私」が妄想鉄道サークル「京福電鉄研究会」というを選択した世界線で巻き起こった物語。


事前に断っておくと私は前作の「四畳半神話大系」の大ファンなのでこちらの作品の評価にも多分にそのひいき目が入っている可能性があるので、Amazonレビューの星5との人はこう言ってるくらいの一つの意見としてもらいたい。
私が思った良かったところを列挙していく。

こちらは前作「四畳半神話大系」も含めて内容のネタバレになるのでネタバレが嫌な人は見ないでください。

90点/100点満点

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あらすじ


真夏の灼熱地獄の京都で主人公である「私」の部屋にある下鴨幽水荘唯一のエアコンが動かなくなってしまった。
他人の不幸で飯が美味い、妖怪の如き悪友・小津がエアコンのリモコンを水没させてしまったのだ。
この残りの夏をどう乗り切るかと憂いながらも「私」の日常は進む。密かに恋い焦がれているクールビューティーである後輩・明石さんが作るポンコツ映画の撮影に協力し、樋口師匠や小津たちに振り回されながら銭湯に行き、勇気を出して明石さんを五山の送り火見物に誘おうとするも結局勇気が出ずにただのストーカーのような振る舞いになってしまったり。
そんな上手くいかない学生生活にうなだれている「私」と撮影に参加したメンバーの前にタイムマシンが現れる。
そこで「私」の天才的な発想が生まれる。昨日から壊れる前のエアコンのリモコンを持ってくればいい!



劇的な出来事なんて無くても物語は最高に面白い

この物語はよくあるタイムパラドックス的で世界に大きな影響を与えることを危惧してタイムマシンで過去に戻り、小津を始めとした身勝手の極意というような登場人物たちにタイムマシンを悪用しないように「私」と明石さんが奮闘するというような流れなのだ。
しかしはっきり言って読んでる側としてはそんな危機感は感じない、危機感を感じているのはおそらく作中の中の「私」と明石さん、城ヶ崎氏くらいだろうと思う。
それに前作の「四畳半神話大系」でもちょいちょい急に摩訶不思議な白昼夢のようなとんでもないSF展開な世界に巻き込まれることもあり、どんなに未来がへんてこに改変されても「阿呆だなぁ」という感想がでる程度で、世界消滅の危機を感じてハラハラ・ドキドキしながらページをめくるということは私は特になかった。
何だったら過去に行く前に描かれる日常の中にこれ見よがしに登場人物の言動に違和感がありそれが伏線になっていることは明白なので、最後には元鞘に収まると安心して読めるまである。

しかしじゃあ物語がつまらないか?というとそれが全くそうじゃないからこの作品はすごいと思う。
伏線は見えるがそれがどういう因果でそうなったのか?を考えるが過去に戻って事実を確認すると実に阿呆なことが原因になっており、その阿呆さ加減がこの登場人物たちをとても愛おし存在にしている。

例えば樋口師匠が愛用するシャンプー「ヴィダルサスーン」が銭湯にて何者かに盗まれた。
樋口師匠に敵対する存在か?さもなくば悪さに関しては余念のない小津の仕業か?と過去に戻った樋口師匠は自分のヴィダルサスーンを盗んだ犯人を捉えるため昨日の自分が行った銭湯で張り込みを行う。
「私」の静止も聞かずに過去の自分に会ってしまう恐れのある行動を取りまくるが最終的にそのヴィダルサスーンは樋口師匠自身が「人に盗まれないように先に私が盗んでおこう」と盗んでしまうのだ。

実に阿呆な答えだと思う。だけどそれが樋口師匠の師匠たる由縁だと思う。
それ以外の登場人物も角度は違えどみんな総じて阿呆で阿呆な行動を繰り返す。

その巻き起こる出来事を続きが気になる!という感覚ではなく、もっとこの世界を見ていたいという感情でページをめくる手が止まらなくなる。


阿呆な登場人物に阿呆な主人公

先程にも書いたとおりこの物語は登場人物全員が角度は違うが何かしら阿呆な一面があり、その阿呆な立ち振舞いに振り回される「私」は一見理性的に見えるのだが私はこの「私」こそがもっとも阿呆なのではないか?と思ってしまう。
「私」は表紙やアニメなどでも描かれているとおり実に冴えない男子学生というような男で、頭も要領も悪く片思いの明石さんにも全くアプローチをかけられない臆病者。
そんな「私」がどうにかこうにか周りの個性的な登場人物たちを制して問題の収拾にあたる。
昨日の出来事を思い出し、未来の我々がどこでどう干渉していたか?それを矛盾がないように再現していく。
そして全ての矛盾が解消されたかと思いきや最後の最後にタイムパラドックスを残さないために一人過去の世界に残らなくてはならなくなる。
明石さんは昨日、「私」から五山の送り火現物に誘われたと告白し、「私」は一人過去に残り明石さんを五山の送り火見物に誘うい最後の矛盾を解消しないといけなくなる。
そこで勇気を出し五山の送り火見物に誘う「私」、しかし矛盾は解消したものの未来に帰るためのタイムマシンはすでに未来に帰っており、迎えに明石さんが来ようにもタイムマシンの到着地点には誰かしらの人がおり遭遇すると今までの努力が水の泡となるため迎えに来ることができない。
しかし「私」は未来に自力で帰ることになる。この騒動が起こる2日間の間、自室の押し入れの中で息を潜めて隠れ続けるのだ。
未来に帰ってきた明石さんたちは「私」を迎えにいかないとと思うが押し入れに入っていた「私」が顔を出す。

過去の自分と入れ替わるというのは昔読んだドラえもんだとよくある展開だったが、その為に灼熱地獄の自室の押し入れに息を潜めるという本当に阿呆な行動。
このここぞという所に出てくる「私」のとんでもない阿呆な行動が、冴えない彼がとても魅力的に写してくれる。

実は阿呆な世界の中にも主人公の葛藤と変化がきちんとある

前作の「四畳半神話大系」は理想の学園生活を送れない「私」が最終的にたどり着いたのは四畳半主義者というどのサークルにも入らずに、誰とも関係を持たずにただひたすらに自室の四畳半にこもり続けるというもの。
そこで「私」は自室の隣が自室に繋がっている無限の四畳半世界に迷い込んでしまう。
その別の四畳半は別の行動をした「私」が生活を送る四畳半で何もしなかった「私」にはそのどれもが魅力的に見えた。
それまでの世界線で「私」は「もっと別の選択肢があったのでは?」と自分の最初の選択を悔いて理想の学園生活を探し続けていたが、今まで読者が見てきた彼の学園生活は薔薇色ではないにしてもとても素晴らしい学園生活だったのだと気付かされるという話なのだ。
今作の「私」も最初に妄想鉄道サークル「京福電鉄研究会」を選択した結果、小津の暗躍でこのサークルは一時分裂状態になっておりそのしわ寄せで「私」と小津はサークルから追放されるという憂き目にあっていた。
「私」はその不毛な2年半の学園生活を悔いて、何より関わるのはたまに師匠のもとに訪れる小津がついでに顔を出すくらいのものという孤独を抱えていた。
実際、前作では四畳半主義以外の世界線では登場人物たちは何らかの形で「私」と関わり認識していたが、この妄想鉄道サークル「京福電鉄研究会」の世界線では私はなんとなく顔は知ってるくらいの関係がほとんどだ。

しかしタイムマシン騒動の中で必死に立ち回る「私」とそれぞれの登場人物の中に少しづつ関係が生まれて来て、最後に「私」が押し入れに隠れて外の様子を見て気がつく。
自分はずっと孤独だと思っていたが、「私」の部屋には常に誰かが訪れてタイムマシンの着く暇もないほどだった。
それはもちろん撮影があった一時的なものであるかもしれないが、「私」が望んでいたものは常に目の前にあった。
「好機は常に貴方の目の前にぶら下がっています」というオバアの言葉が思い浮かばれる。
そういった主人公の葛藤と変化が巻き起こるストーリーの中に織り込まれている物語の展開に美しささえ感じた。


「私」と明石さんの恋

思えばきちんと「私」が明石さんに明確に恋をしている世界はこれが初めてだということ。
最初のテニスサークルの世界では「私」は成り行きで明石さんを意識し、最後の四畳半主義者では「私」は明石さんとの恋を成就させるが、無限四畳半の世界の中で気がつく描写はあるが恋に苦悩しているようなシーンはない。もちろん多かれ少なかれどの世界線でも「私」は明石さんに好意を寄せていつかそれに気がついていると思うが、どれも明確に恋をしている描写はない。

しかし今回の妄想鉄道サークル「京福電鉄研究会」では「私」は明確に恋をしており五山の送り火見物に誘えないことに葛藤し、明石さんがすでに五山の送り火見物に他の人と行く約束をしている知るとショックを受けている。

前作を読んでいれば「私」のような人間を理解し受け入れる度量を持っているのは明石さんくらいなもので、「私」が明石さんという好機に手を伸ばせば掴めるということをわかってはいるのだが、当然この世界の「私」はそんなこと知らないのでヤキモキしている。

前作はどちらかというと明石さんよりは小津と「私」の学園生活で描写が多かったが、今回は明石さんがこの世界でどう立ち回っているかよく描かれている。
明石さんは映画サークル「みそぎ」でポンコツな映画をいくつも制作している。
それはまるで「私」が別の世界線でポンコツな映画を制作していたように。
今回の映画撮影も「私」と小津が話していた壮大なSFスペクタクルな阿呆妄想話を明石さんが面白いと食いついてその内容で映画を撮りたいとなり、その手伝いをすることになったのが発端だった。

こう見ると能力や要領の良さに違いはあるが明石さんと「私」は情熱を注ぐ先が実によく似ている。
だからかはわからないけど明石さんは少し「私」を「尊敬」し、その阿呆さ加減に「愛おしさ」を持っているのだと思う。

そんな明石さんに「私」が苦悩し滑稽な姿を晒しながらも勇気を持ち最後には好機に手を伸ばしていく姿は見ている側としてはすごく嬉しい気持ちになる。
そしてお決まりの文句、「成就した恋ほど語るに値しないものはない」。
この言葉だけで「私」と明石さんのこれからの未来が明るいものだと伝わってくるとても素晴らしい話だった。


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