笑いに関する名言集――ジョークと笑い
みんな名言が好きなんだな、という事実を、書籍やネットで山ほどある名言集から間接的に知ることができます。何かのテーマに絞った名言集も珍しくない。
「笑い」に絞った名言集もあるにはあるんですが、まだまだ限定的で発展の余地があると感じました。そもそも私自身、笑いの名言にどんなものがあるのかまだよく知りません。じゃあ、ちょっとずつ集めてみればいいやと思いました。何だったらここで公表してみてもいいんじゃないかとも思いました。どれだけ続くのかは神のみぞ知る状況ですが、試しにやってみています。
ここでは笑いの名言を以下のみっつのどれかに当てはまるものとしました。
今回はヨーロッパの著名人による、ジョークについて語った名言をいくつかまとめてみました。
笑い話の類は恐らく昔から巷にあふれていたことでしょう。そのうち、「他の人よりもいい冗談を考えよう」という人が現れ、「そもそもいい冗談とは何か」に興味を持つ人が現れ、あれこれ追求した結果として「冗談とはこういうものである」と冗談指南する人が現れる。今と大体同じですね。
著名人の中にも冗談好きがいらっしゃったようで、例えばこんなものがあります。
フランシス・ベーコンはイギリスの貴族であり政治家であり神学者であり、と多方面で活躍された人物ですが、現在では哲学者として有名であり、哲学の歴史には必ず入ってくる人物のひとりです。と書くと、なんかものすごく真面目で堅そうな人にも思われますが、少なくとも冗談についても考えてはいたようです。
ずっと冗談を言っていては飽きが来るし、本気なことばかり言っていてもつまらない。どっちも混ぜてメリハリをつけたほうがいいということでしょう。
現代における日本のお笑いには「緊張と緩和」という考え方があります。検索するといろいろ出てきますが、考えたのは落語家の二代目桂枝雀さんで、「生理上で最初に緊張があり、それが緩和されると笑いが生じる」という理屈とされています。冗談と本気を混ぜる方法にも通じるところがありそうです。
もっと具体的なアドバイスが名言として残った。そんなものもあります。
シラーはドイツを代表する詩人・劇作家です。前期は文学革新運動「シュトルム・ウント・ドラング」の代表格として、後期は古代ギリシャまたはローマの文化を模範と考える「古典主義」の代表者として、ドイツ文学の黄金期を支えた人物のひとりと目されています。
思い出し笑いしながら面白い話をするとスベる、みたいな経験をした方はいらっしゃるでしょう。シラーのような大作家ですら、同じ経験をしていた。つまり、時代も国も人も問わず平等に起きる、かなり普遍的な現象と考えられます。
ただ、上記の名言だと、ジョークを言う人がどの段階で笑った話をしているのかに触れていません。ジョークを言ったあとで笑っている可能性もある。
面白いことを言った後、自分で笑う。これは今のお笑いだと「誘い笑い」というやつですね。自分でまず笑ってしまうことで相手の笑いを誘発する行為です。シラーの言いたかったことがそっちだとすると、「誘い笑いはジョークの質とは関係ない」と指摘した名言となります。
そもそもなぜ人は笑い話をするのか。そこに思考を巡らせた人もいます。
ジョージ・オーウェルはイギリスの作家であり、個人の利益よりも全体の利益を優先させる「全体主義」を批判した作品で知られています。具体的には寓話チックなお話でスターリン体制を批判した「動物農場」や労働者を管理し抑圧する全体主義をいじりにいじった反ユートピア小説「1984年」が有名で、極端な監視社会を「オーウェリアン」と呼ぶなど現在でも強い影響を残しています。
「おかしくても、下品ではなく」はイギリスのユーモア文学について書いたもののようでして、オーウェルの作品は最近になって著作権の保護期間が切れたためか、ネット上に翻訳文が公開されています。その訳文ですと、恐らく次の部分が上記名言と同じ個所だと考えられます。
オーウェルの主張を言い換えると、「ジョークはもともとそうだった部分を改めて指摘しただけだ」ということでしょうか。新しくいじるポイントを作ってるわけじゃなくて、本来あったものをいじるというわけですね。
一見すると当たり前のようにも思われますが、他人のあれやこれやを指摘する笑いがうまい人は、相手が隠し持っていたり、場合によってはいじられた本人すら気づいていないような部分を引っ張り出します。それが新たにいじる部分を作ったように見えるのかもしれません。しかし、実際はもともとあったものを引っ張り出して指摘したに過ぎない。当然、ただ引っ張り出すだけでは不十分で、それを笑えるようにうまく加工して周囲に提供しなければならない。有吉弘行さんはこれが特に上手な方です。
一方で、お笑いの弊害に触れた名言もございます。
ウィリアム・ヘイズリットはイギリスの批評家であり、随筆家としても知られます。牧師の子として生まれ、本人も牧師を目指すも著名な詩人との出会いにより文学に転向、評論や随筆で名を成し、ロマン主義と呼ばれる文学の批評では第一人者とも言われています。
冗談というのは何かを笑いものにする側面があります。そのため、笑って楽しむ人がいる反面、傷つき嫌な思いをする人がどうしても出てくる。少なくとも、その危険性は全てのお笑いにあると個人的には考えています。
冗談の「被害」にどう対処するかは、冗談を言う人によって異なるでしょう。傷つく人がいても自分が責められても自分が言いたい冗談を言う人もいれば、なるべく角を取ってより多くの方に笑ってもらえるものを目指す人もいるでしょう。それは方法の違いであり、正しいか正しくないかとは別の話です。
そんな冗談への注意点に触れた名言も存在します。
フィリップ・スタンホープ、別名チェスターフィールド伯爵はイギリスの政治家であり、著述家としても知られます。エッセイなどで成功を収めますが、息子へ書き続けた手紙をチェスターフィールド没後に遺族がまとめ、書簡集として出版、評判を呼び、現代では代表作と呼ばれるまでになります。上記の名言もまた、その書簡集からの抜粋です。
息子に宛てた手紙とは言え、ウケ狙いの話をする上で大切なことをギュッとまとめた表現になっています。同時に、ウケ狙いの話は往々にして人を傷つけてしまうところがあると暗に指摘しています。ただ、それでも、少なくとも誰かを喜ばすために使おうというチェスターフィールドの言葉は、単なる説教以上の意味をふんだんに含んでいると個人的には感じられます。
とは言え、本当に面白い話というのが世の中に存在するのは事実です。
G・K・チェスタトンはイギリスの作家であり、批評や随筆、詩など広く作品を残しています。有名なところではブラウン神父が事件を解決する推理小説がございますね。「木の葉を隠すなら森の中」という有名な文言はブラウン神父シリーズの「折れた剣」に登場する言葉です。
上記の名言は批評家としても活動してきたがゆえの言葉でしょう。ものすごく面白くて笑ってしまう話の中には、批評とか理屈とか、そういうものをあっさりと超えてしまうものがあります。何で笑えるのか考えたところで「だって面白いんだもん」「だってバカバカしいんだもん」みたいな感想しか出てこない、そんな笑いですね。無理やり理屈を後付けすることもできるでしょうが、そんなことしたって正直な感想は「だって面白いんだもん」みたいなところに着地する場合が往々にしてあります。
ところで、チェスタトンと言えば、イギリス(生まれは現在のアイルランド)の劇作家ジョージ・バーナード・ショーとのやりとりが知られています。
なぜかクイズの問題にされており、以下のサイトで楽しめます。
ここからはクイズのネタバレをするのでご容赦ください。先ほどの画像を見ての通り、チェスタトンは結構な胴回りだったようです。一方のショーはベジタリアンだったこともあってか痩せていた。それをチェスタトンがいじりました。
そこでショーはこう切り返しました。
うまい切り返しだから今日に残っているのは間違いありません。しかし、イギリスのジョークは日本人から見るとブラックと言いますか、きつい印象を与えるものが多いと聞きます。以前、ピーター・バラカンさんのお話を聞いたことがあるんですが、バラカンさんも「イギリスの笑いは日本に比べていじわるだ」とおっしゃってました。チェスタトンとショーのやりとりもまた、日本人からすると言い回しがきつめに聞こえます。
だからいいとか悪いとかではありません。ただし、ショーはイギリスに暮らしていたわけで、イギリス流のきつめなジョークを吹っかけられる可能性がある日々を過ごしていた。そのため、うまく切り返す能力を磨いたのはもちろん、その力をいつでも出せるようアイドリングしていたのではないかと推測します。その結果としてチェスタトンに一発やり返した。
ショーの返しがチェスタトンの言う「素晴らしい冗談」に当てはまるのかは分かりませんが、その返しを食らった時、チェスタトンがどんな反応したのかは気になります。
◆ 今回の名言が載っていた書籍
◆ その他の参考文献
ウィキペディア
コトバンク
「ドイツ文学案内」朝日出版社
「はじめて学ぶドイツ文学史」ミネルヴァ書房
「イギリス文学案内」朝日出版社
「イギリス文学入門」三修社
https://www.jstage.jst.go.jp/article/warai/15/0/15_KJ00004982025/_pdf