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癖は多様性の時代へ
「なくて七癖あって四十八癖」と言われる通り、みんなそれぞれに癖があるわけです。別にあるのは全然構わないんですが、全然知らない人の妙な癖に遭遇する時があるんです。もう何なら出会いがしらに癖を目撃し、もう二度と会わない場合もある。
例えば、私が近所を歩いておりますと、前をひとりの男性が歩いています。かなりご年配の方でして、格好から推測するに散歩をされているようです。腕をしっかり振って、もう散歩の効能を最大限に享受しようとしている。
しかし、男性のトレーニングは散歩だけではないようです。歩くテンポに合わせて何やらブツブツ言っているので、何と言っているのか距離を詰めて確かめたんです。もう不審者半歩手前の行動ですが、危険を冒したお陰で分かりました。男性は「あ、い、う、え、お」と五十音順を片っ端から言っていたんです。
足腰と同時に声帯も鍛えてしまおうという魂胆なのでしょう。一度にいくつもの場所を鍛える。効率を重視する方と見ました。私、普通に感心してしまったんですが、よくよく聞くと妙な点に気がつきました。「エ」の段だけ明らかに声が小さいんです。エもケもセもテのネも、他に比べて明らかに小さい。
「サ行が言えない人」だったらまだ分かるんです。細かすぎて伝わらないモノマネでもネタにされているくらいですから、結構なあるあるなんでしょう。「なぜサ行が言えないのか」みたいなページもいくつか出てきました。
でも、「エ段が言えない人」は珍しい。何なら、「エ段が言えない人」で検索したら、どういうわけか「イ段が言えない」とか「なぜイ段が言いにくいのか」とか、イ段の発音に関するページばかり出てきます。
ここまでエ段を差し置いて「イ段が言えない理由」ばかり出てくると、何だかイ段派の陰謀を察してしまいそうになります。何が何の陰謀を抱いてんだって話ですが。
とにかく男性は声が聞こえなくなるまでずっとエ段だけ言いづらそうにしていました。以降、二度とお会いしていませんが、たぶんまだエ段を苦手にしてくださっているはずです。
他にも、こんな男性に遭遇した時もあります。ジョギングで綺麗な一軒家のそばを通った時です。ちょうど家主と思しき男性がドアに鍵をかけておりました。慎重な方なのか、ちゃんと鍵がかかったかどうか、ちょっと強めにドアをガチャガチャやって確認したんです。鍵はちゃんとかかっている。それが判明した途端、男性は結構大きな声で「よしっ!」と言ったんです。屈強な身体の空手家が「押忍!」と言うくらいのボリュームです。
きっと男性はドアをかけるたびに確認し、チェックが完了すると空手家のレベルの声を出してきたんだと思います。家族はすっかり慣れて何とも思わなくなっているか、もしくは注意したけど直らないから諦めているのでしょう。結果として男性は特殊な癖を保ちながら今まで生きてこれた。この男性も一度しかお会いできていませんが、今日もドアに鍵をかけたことを確認すると空手家みたいに「よしっ!」と言っているんでしょう。
癖ひとつとっても、本当にいろんなものがあるんだなあと感心してしまいます。最近はやたら多様性多様性言われておりますけれども、少なくとも癖は完全に多様性の時代へ突入していると思います。