羽生善治氏と羽田圭介氏が「新聞」をオススメする理由
▼新聞がインターネット、特にSNS経由のニュースに押されるようになって数年が経つが、新聞の価値は減っていないことを、2019年6月15日付の産経新聞で、将棋棋士の羽生善治氏が語っていた。
その記事を読んでいて、ずいぶん前に読んだ羽田圭介氏の文章も思い出したので、あわせて紹介しよう。
▼まず、羽生氏の談話から。
〈最近はニュースそのものがあふれていますね。そのニュースは本当なのか、フェイク(偽)ニュースではないのかと感じるときがあります。新聞では確実に裏が取れていないと記事として掲載されない。その点からも新聞は重要なものだと感じています。〉
▼マスコミをマスゴミと貶(けな)す人が増えたように感じるが、いわば「部分の全体化」の最たるものだ。なぜ、ごく一部分のミスによって、マスゴミなどと一般化できるのか、その論理がいまいちわからない。
▼さて、思い出した羽田圭介氏の文章というのは、2017年1月1日付の日本経済新聞の広告に載っていた文章だ。製紙会社の広告だった。
タイトルは〈文章を客観視させる紙の機能〉
厳密にいうと、「紙に印刷されたもの」というくくりなので、新聞に限定した話ではないのだが、製紙会社の広告で、新聞に載っているから、新聞もオススメしていると考えて大過ないだろう。適宜改行。
〈紙に印刷されたものは、責任感のある媒体だ。世に出回ったら後から修正できないので、どの活字メディアも最低限の間違いはないという確認作業をし、責任の所在をはっきりさせている。
垂れ流しの情報の中から信頼できる情報を選ぶことに手間をかけるより、少しでもお金を払って責任のはっきりした情報に接したほうが有限な人生で無駄を省けると思う。〉
▼羽生氏と羽田氏と、二人が強調している新聞の利点は、裏を取る、確認する、という作業を通して、新聞社は「責任」をとる姿勢を持っている、ということだ。二人とも、とてもまっとうなことを述べている。
インプットする情報が「編集」という作業を経ているかいないかで、人生の時間の無駄を省ける。たとえば、「上」を目指そうとしているビジネスパーソンは、まかり間違っても、インターネットのニュースだけで事を済まそうとすることはない。
▼羽生氏の談話から、もう一つ面白い話を紹介しておこう。
〈私はタイトル戦で地方に行ったときは、地元の地方紙を読むようにしています。ご存知のように、地方紙は全国紙と内容が違いますが、地元のニュースが多い地方紙は、その地域を知る上で読んでいておもしろいですね。〉
いわば「地方紙のススメ」である。まったくの同感。筆者もたとえば沖縄に行ったときには沖縄タイムスと琉球新報を、福岡に行ったときは西日本新聞を、長野に行ったときは信濃毎日新聞を、宮城に行ったときは河北新報を、駅売りで買って読む。どれも、じつに面白い。
▼「地方紙のススメ」に関して、東京の「広尾」駅が生活の視界の中に入っている人には、東京都立中央図書館に足を運ぶことをオススメしておく。同図書館では、47都道府県すべての県紙、ブロック紙を読むことができる。とてもオススメである。
東日本大震災の直後、同図書館に行ったとき、たしか地震から1週間ほど経っていたと思うが、いくつかの新聞の綴(つづり)が2011年3月10日付のままになっていたことが強く印象に残っている。
(2019年6月16日)
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