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アメリカのあちこちに「反マスク法」という法律がある件(2)

▼先週の金曜日(2020年5月15日)、下高井戸の駅前で中国製のマスクが「50枚入り1500円」で売っていた。

もともと「50枚入り3000円」のものを、タイムセールということで半額にしていたのだが、タイムセールはしばらく続いていた。この数カ月で、マスクの値段が乱高下している。

▼アメリカのあちこちに「反マスク法」という法律がある、というコラムから、トッド氏の『移民の運命』を思い出した話の続き。前号はこちら。

▼今号のキーワードは、「先験的(せんけんてき)な形而上学的(けいじじょうがくてき)確信」だ。

もう、見るだけで、続きを読む気が失(う)せそうな面倒な術語(ターム)なのだが、ここが腹に落ちれば、後が楽なので、必要最小限の引用をしておく。適宜改行、太字。もともと本文が太字のものは太字プラス【】にしておく。

ここで出てくる普遍主義と差異主義は、移民を受け入れる時に「同化」するのが普遍主義で、「隔離」するのが差異主義、くらいにとらえておけばいい。『移民の運命』の副題は「同化か隔離か」である。

▼トッド氏によると、同化=普遍主義か、隔離=差異主義か、どちらになるかは家族の教育によって決まる、というのだ。学校の教育でもなければ、社会経験でもない。

〈普遍主義と差異主義が家族システムによって決定されるということは、人間が普遍的か多様かという考え方が、諸国民(プープル)・民族(エトニ―)間の接触の具体的現実とは別のところで決定されるということを意味する。

人類の単一性あるいは多様性への確信は、世界のあれこれの地域からやって来た個人を経験的に観察して、彼らの行動が普遍的人間本質の仮説を裏付けているかどうかを検証した結果、生じるものではない。

教育が子供の無意識の中に、例えば兄弟の等価性という前提を定着させるのであり、それがイデオロギーのレベルに移し替えられて、人間一般の等価性に変わるわけである。

このような暗号解読装置を持つ子供は、成人するに及んで、外国人の具体的行動の中に、客観的現実を見付けようとするのではなく、人間とはどこまでも同じであるということの確認を見付けだそうとする。

普遍主義は、家族的価値体系によって産出され、再産出されるのであり、ある意味でいかなる客観的社会現実にも左右されないのである。

差異主義についても同じことが言えるのであり、それは家族という個人的な圏域において教育によって決定されるのであって、民族間接触によって、人類の「さまざまに異なる」見本を突き合わせることによって決定されるものではない。

それが故に、普遍主義とその反対物である差異主義は、それを生活の中で生きている成人にとって、【先験的な形而上学的確信】の論理としての身分を持つものなのである。〉(『移民の運命』58頁)

▼長い文章だけれども、要するに、家族の教育によって価値観が決まってしまうことを、「先験的」といい、「形而上学的確信」といっているわけだ。

形而上というのは、とりあえず、目に見えないもの、反対に形而下(けいじか)は、目に見えるもの、くらいに考えておけばいいと思う。

▼「先験的」だから、後からどう努力してもその影響は拭(ぬぐ)えない。ということは、差異主義の場合は、どれだけ「意識的」に「人間の平等」を唱え、努力したとしても、「無意識」のレベルで「人間は平等ではない」という確信が埋め込まれているから、必ず誰かを隔離してしまうのだ。

たとえ、目の前に自分より優れた異人種がいたとしても。

▼そんなバカなことがあるか、と思う人も、アメリカの歴史をみると、このトッド氏の仮説が説得力を持っていることを認めざる得ない。

平等か、不平等か、という人間観は、家族の教育によって決まる。これは〈アメリカ社会があらゆる意識的努力にも拘(かかわ)らず、社会生活についてのある種の人種的な考え方を払拭することができないのは何故なのか〉(64頁)を解き明かす、有力な仮説である。

▼アメリカの場合は、イングランドの家族システム、プロテスタントの聖書解釈の伝統が持ち込まれ、21世紀になってからも、アメリカの「無意識」を支配している、という説明が続く。

▼いやいや、アメリカの独立宣言は人間の平等を謳(うた)っているじゃないか、と思う人がいるかもしれないが、人類学的にみると、独立宣言は黒人差別を否定するものではない。

むしろ、黒人差別がなければ独立宣言は成り立たないのである。

(この稿つづく)

(2020年5月19日)

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