「平成31年」雑感18 死刑制度は「存在してはならない生」を想定している件
▼まったく流行(はや)らない議論だが、知っているのと知らないのとでは結果が異なる場合がある話を紹介する。
▼死刑制度の是非について、憲法学者の木村草太氏が「世界」2018年9月号に書いた論文が読みごたえがあった。
〈死刑違憲論を考えるーー「存在してはならない生」の概念〉
▼木村氏はまず、「形式論」の次元で死刑制度を憲法違反だと指摘する。
それは単純な話だ。
日本国憲法の36条は、「残虐な刑罰」を禁じている。
〈第三十六条 公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。〉
そして、日本社会では、目をつぶしたり、腕を切り落としたりする刑罰は「残虐な刑罰」だと認められているが、死刑は「残虐な刑罰」ではないとされる。目を奪い、腕を奪う刑が残虐で、命を奪う刑が残虐ではない、という判断は、おかしくないか、死刑は憲法違反ではないか、という話。
もうひとつ、木村氏は、死刑制度は憲法19条にも違反していることを指摘する。
〈第十九条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。〉
死刑は、この〈絶対的保障を受けるとされる内心の自由を侵害する〉。〈死刑になれば、内心は消滅し、ものを考えることはできなくなる〉からだ。
念のため、〈正当防衛を許すことと、絶対保障を受ける権利の観点から、死刑の違憲を主張することは矛盾しない。〉
▼さて、この後、木村氏は以上のような「形式論」での死刑違憲論だけでなく、「実質論」での批判に入る。
その前提となる、日本国憲法の第十三条を示しておこう。
〈第十三条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。〉
この有名な条文をどう読むか、という話。
引用中に出てくるロックの文章が難しいと感じる人は、まず木村氏の解釈を読んでから、興味があれば読み直せばいいと思う。筆者は、下記の文章を熟読に値すると思う。適宜改行。
〈形式論とは別に、実質論で考えても、死刑には違憲の疑いがある。
自然法の下での死刑の性質について、哲学者ジョン・ロックは、次のように述べている。
……それに対して万人の手によって科される罰を見せしめることによって、他の者が同種の、賠償によっては償い得ない加害をなさないようにするために、また、神が人類に与えた理性と共通のルールと尺度を放棄して、彼の犯した不正な暴力と殺戮により、全ての人類に戦いを宣言し、それゆえ、ライオンやトラなどの野生の獰猛な獣(beast)の一匹と同様に殺処分(destroy)にしてもよい、その者と社会も安全も形成し得ない犯罪者の試みから人間を守るために、自然状態における全ての人間は、殺人者を殺す権利を持つ。John Locke,"Two Treatises of Government" BookⅡ Chapter2,11,1690
ここで、ロックは、死刑は、対象をもはや人間ではない存在(「獣」)として扱うものであると明確に宣言する。もちろん、ロック自身は、死刑廃止のためではなく、むしろ、自然法下での死刑を正当化するために、犯罪者は「獣」と同じだと述べているのだが、この議論には、死刑が対象をどのように位置づけるものかが明確に示されている。
生命を奪えば、もはやその個人は、個人として存在できなくなる。死刑は、対象を「尊重されるべき個人」ではなく、「存在してはならない生」と位置付ける。
存在を否定されているのだから、国家や社会の側は、対象をどのように扱ってもよい。近代法は、「人」と「物」に分け、「物」を「人」の支配の対象とする二分法を根本的な原理とする。獣は「物」に分類されるが、死刑囚もまた「物」と同じ位置に置かれる。
しかし、個人を「獣」に分類し、尊重の対象としないことは、日本国憲法の根幹となる「個人の尊重」という原理に反する。
一度、「存在してはならない生」という概念を認めてしまえば、時の政治権力が、「社会にとって無益な人間」や「有害な民族」などを、その概念に含めてしまう危険が生じる。
それは大変恐ろしいことであり、憲法13条は、「存在してはならない生」というカテゴリーを設けることを許していないと考えるべきではないか(長谷部恭男『Interactive 憲法』有斐閣、2006年。第8章は、個人の尊重からの死刑違憲論の可能性を検討している)。
そうすると、実質的に考えても、死刑は憲法13条に違反すると言える。奴隷的拘束からの自由(憲法18条)や内心の自由(憲法19条)などの絶対保障を受ける権利との関係で、死刑の合憲性が説明できないのも、そもそも、他の憲法条項も、個人を「存在してはならない生」というカテゴリーに分類することを想定していないためだろう。〉
▼上記の文章を読むと、木村氏は、明確に「優生思想」の危険を念頭に置いていることがわかる。
〈一度、「存在してはならない生」という概念を認めてしまえば、時の政治権力が、「社会にとって無益な人間」や「有害な民族」などを、その概念に含めてしまう危険が生じる。〉
という一文が重要だ。「存在してはならない生」を認めた社会の成れの果てが、ここに示されている。
しかも、「社会にとって無益な人間」や「有害な民族」を「認定」するのは、政治権力や国家だけではない。社会の側が、「社会にとって無益な人間」や「有害な民族」を「認定」する場合がある。
社会の側が政治権力を煽(あお)る場合のほうが、多いのかもしれない。
この文章を読んでいる人が、いちど画面から目を離して、自分の身の回りを見回してみた時、友人や知人に、「社会にとって無益な人間」や「有害な民族」を名指ししている人はいないだろうか。
嬉々として。もしくは密かに。
▼「平成」の終わりのここ数年、日本社会では、「存在してはならない生」を認めていることを象徴する事件や、そういう現実を「見える化」する事件が、幾つか起きた。
木村氏の論考を読むと、そんな社会で死刑制度に多くの人が賛成するのは、「論理的」に考えて必然であり、とても「合理的」な話であることがわかる。
「平成」の世を締めくくる最大の刑罰が、オウム真理教死刑囚13人の一斉処刑だったことは、わが国とわが社会の特徴をよく示している。
(2019年4月29日)