「平成31年」雑感11 「無差別大量殺人による救済」の行きつく先
▼前号では、オウム真理教が起こした数々の事件の底を流れるのは、「宗教的動機」であり、具体的には「無差別大量殺人による救済」だったことをメモした。
▼今号では、この論理の行きついた先は何だったのかを確かめる。
▼オウム真理教の危険に気づいていた数少ない人の中に、弁護士の滝本太郎氏がいる。滝本氏は「文藝春秋」2018年9月号で次のように書いている。
〈教団が明らかに変質してきたのが1993~94年です。まず松本の説法の内容が変わってきました。以前は、貧しい人がお布施を出すことは、金持ちがお布施を出すことよりも価値があるという「貧者の一灯」を語っていたのですが、急に金持ちが沢山お布施をする方がいい、前世での行いがいいからだとまで言い出した。完全に堕落してきた。
さらに1994年7月に知ったのですが、薬物を使用した儀式を始め、内部での死亡事件が起こっていました。宮崎資産家拉致事件など証拠を残す乱暴な形での事件も起こすようになった。松本サリン事件も起きていた。
私は末期症状だと考え、「強制捜査を早く」、「集団自殺・虐殺もある。まして毒ガスを持っている場合の悲劇は想像がつかない」と捜査機関に要請し続けました。
私も合計4回狙われました。〉
▼この、明らかに変質した時期に出てきた「説法」に、アリのたとえ話がある。藤田庄市氏の「世界」2018年9月号の論考から。適宜改行。
〈サリンを手にした麻原は、1994年3月にこんな瞑想の説法をした。
10億匹のアリに対してある人間が火炎放射器を放つのである。
アリは世の人々、人間は麻原、オウム信徒と容易にわかる。
ここで麻原が言うのは、魂の価値の差である。イメージとしても残酷無比であると同時に、凄まじい差別意識だ。救済=無差別大量殺人の意志の背後にはこの差別意識が横たわっていた。それ故、新実は法廷で言い放った。
「事件は大いなる菩薩の所業といえる」
オウム諸法廷は宗教的動機とその展開過程の具体的事実を直視しなかった。
死刑確定のあと、収監され接見のできなくなる直前、筆者は早川と会った。彼は法廷で、麻原のカリスマ性と信徒の関係、事件の宗教的動機を主張してきたが、「なにもかも却下された。最後まで理解されなかった」と悔しさを訴えた。そして、
「また、起こりますよ」
と、告げた。
今、この言葉を遺言と受け止めている。〉
▼藤田氏の上記論考によって、「10億匹のアリに対してある人間が火炎放射器を放つ」というイメージに包まれた無差別大量殺人が、オウム真理教の人たちにとっては「大いなる菩薩の所業」と位置づけられていたことがわかる。
さて、ここからが本題かもしれない。
こうした「救済殺人」の論理は、まったく異常なものなのだろうか。今の社会とは完全に異質のものなのだろうか。
この点を、次号で考える。(つづく)
(2019年4月22日)
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