先崎学氏の『うつ病九段』を読む

将棋棋士の先崎学九段が書いた『うつ病九段』(文藝春秋)は、うつ病の当事者による克明な手記で、当事者自身がこれほど詳しい心境の刻々の変化を書いたものは貴重だ。

▼読んでいて、涙がこぼれた箇所がいくつもあった。そのひとつを紹介しておきたい。

▼この本の帯には、羽生善治九段とのやりとりが載っている。うつ病の症状が回復しつつある時の出来事だ。お正月の指し初め式にて。

〈十分くらい前に着いたので、寒い中突っ立っていると羽生と隣合わせになった。「いや久しぶりだね」とか二、三言交わすと向こうから「で、体調はどうなの?」といつになくゆっくりと、いつにも増して、カン高い声で訊いてきた。なにか気を遣われているようで面倒だったので、「うつ病は辛いよ」と単刀直入に返す。彼はすこし動揺したようだった。人の口から聞くのと本人からずばっと聞くのではまるで違うのだろう。口ごもった末に「で、どうなの?」ともう一度繰り返した。「あと三カ月すれば大丈夫だと思うんだが、対局はよく分かんねえ」とこれもぶっきらぼうに返すと「あ、やっぱり時間が長いもんねえ」とか「あ、そうだよね、使う脳が違うもんねえ」とか、ぶつぶつ呟きだした。〉(153-154頁)

帯ではここまでが引用されている。羽生善治九段の雰囲気を、このように見事に描くことができるのはおそらく先崎氏だけだろう。

『うつ病九段』の冒頭を読んだ人ならすぐ気づくが、そして将棋好きの人にはよく知られているが、先崎氏は無類の名文家である。興味のある人は、最近では2017年3月3日付から8日付の日経新聞に連載された、三浦弘行九段との自戦記を読むことをオススメする。屈指の名文である。

▼読んでいて涙がこぼれた箇所の一つは、この直後だ。

〈いろんなことをいわれたが「半年でよくここまでよくなったねぇ」というのが一番嬉しかった。

 温かい先輩たちに囲まれて、私はこの後にヒドイ目に遭うとも露知らず、三階の事務所へと向かった。階段を降りると、高浜さんと室谷(現・谷口)由紀女流二段の仲良しコンビがいた。室谷さんは忙しい中お見舞いにも来てくれた私の妹分のような存在である。

 三人でわいわいたわいもないはなしをしていると、中村太地君が通りがかりに寄ってきてがやがやとなった。お喋りに花を咲かせていると、顔見知りの記者が近くにきてカメラをさりげなく構えた。公式の写真という雰囲気ではもちろんなく、記念にという感じである。四人の左端で、いいメンバーなだなあなどと呑気に考えていると、次の瞬間、その場に妙な「間」ができたのを感じた。なんだこの空気はと考える間もなく、背筋が凍った。すがるような思いで記者を見た瞬間、カメラを構えていた記者の右手がシャッターから離れ、一瞬だったが、右に「払え」の仕草をした。子供でも分かる万国共通の「のけ」の合図である。私はすごすごとその場を離れるよりなかった。記者が新王座を挟んで美女ふたり、という構図を狙っているのは明らかだった。しかし私だってそこそこの棋士だし、一番の仲間といっていい三人なのである。

 私は肩を落としきって家に帰った。家に着く前はこのことは考えないようにつとめた。

 家に帰って、私は荒れに荒れた。私は今までこのような「仕打ち」を受けたことがなかった。自分が休場中というのがこんなにせつなく感じたことはなく、荒れるよりなかった。休場前、「3月のライオン」が映画化された頃の私ならば、向こうからお世辞とともにすり寄ってきたろう(引用者注、先崎氏はマンガ「3月のライオン」の監修者)。そしてこれから私が勝てばまた寄ってくるだろうし、この本が売れれば「苦境に耐えた先崎九段」などと題し、私になにくわぬ顔でインタビューするのであろう。それが悪いわけでもなく、その記者を恨むつもりもない。世の中そんなものなのである。

 と、いくら言い聞かせても怒りがおさまらない。ソファーを蹴飛ばしまくって荒れた。ひとしきり荒れると、おいおい泣いた。泣いてはまたソファーを蹴飛ばした。

 二、三日はこのことでムシャクシャして、ちょっとうつっぽくなった。だが、あまり不安にはならなかった。うつっぽいのとうつ病の症状はまったく違うものだと分かってきたからである。うつ病のうつは体の中からだるさや疲れがきて、人としてのパワーががくんと落ちる。それに比べてうつっぽいというのは、表面的に暗いだけなのである。〉(155-156頁)

▼その後、中村太地王座と練習将棋を指す場面で、先崎氏が駒を手にし、〈私は幼い女の子が宝石を手にするように初手を指した〉(164頁)という場面や、それ以外にも胸に迫る描写がいくつもあった。

▼本のラスト近くには、先崎氏の半生が要約して書かれている。

中学時代の壮絶ないじめを将棋で乗り越えたこと。全国の障害者施設、老人ホーム、刑務所などで将棋を教えてきたこと。筋ジストロフィー患者の施設で、こどもたちと一期一会の将棋を指し、「来年も来てくださいね」と言われたこと。

「3月のライオン」の主人公を羽生善治九段に重ねる人が多いが、本書を読めば先崎九段にも重なることがわかる。

先崎氏が復活してくれたことに、将棋が好きな一人として感謝したい。家族や親しい人がうつ病になったことのある人、自分自身がうつ病になったことのある人、そして今、そうである人に、この本をオススメしたい。

(2019年1月18日)

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