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「平成31年」雑感20 須賀敦子「古いハスのタネ」の続き
▼前回のつづき。
▼須賀敦子のエッセイ「古いハスのタネ」にあった、
散文は論理を離れるわけにはいかないから、
人々はそのことに疲れはて、
祈りの代用品として呪文を捜すことがあるかもしれない。
という一文は、「近代化」された社会の運命を物語っている。
現代の特徴の一つは、人類の歴史のなかで「文書」がこれほど強い権威を持つようになった時代はない。
▼「古いハスのタネ」は1995年の日本で書かれた。この年は、わが国で、「祈りの代用品」としての「呪文」に魅入られた人々が、「共同体」をつくり、人類史上初めての、生物兵器による無差別大量殺人に走った年である。
オウム真理教は、いわば呪文の共同体だった。祈りの仮面をかぶった呪いに、「個」としての深み広がりを求めて、「悟り」という名の「自分用の墓穴」を掘ってしまう場合がある。
それだけなら、犠牲者はまだ自分ひとりである。しかし、とても巨大な墓穴を掘る人もいる。その場合、呪いは自分ひとりでは完結しない。
▼彼らの教祖は、テレビを通じてビートたけし氏と対談したり、「とんねるずの生でダラダラいかせて!!」に出演したり、さまざまな人々から持て囃(はや)されていた。
そうしたバラエティー番組を制作して、麻原彰晃を持て囃していた人のなかには、ただの一言も謝罪せずに、今ものうのうとテレビに出て、さまざまな社会問題に対して無知と偏見に満ちたコメントを垂れ流し、金を稼いで、いっぱしの文化人面している外道(げどう)もいる。もちろん、彼らを使う人間がいるから、彼らはテレビに登場し、救いがたい厚顔無恥(こうがんむち)になっていくわけだ。
▼「宗教の代用品」がお金になっている人もいるし、地位になっている人もいるし、国家になっている人もいる。
最初はそうではなくて、そういう「ふり」をしていた人もいる。
しかし、宗教の代用品を信奉することが、あたかも当然であるかのように振る舞っているうちに、人はほんとうに、「お金」を、「地位」を、「国家」を信じる宗教に改宗してしまう。
この世には、たしかに、「魂を暗闇に閉じ込める祈り」があるのだ。
ここ最近は、「優生思想」という名の科学的で合理的な宗教が、首をもたげ始めている。
▼須賀は「古いハスのタネ」の後半で、〈文学と宗教は、ふたつの離れた世界だ、と私は小声でいってみる。でも、もしかしたら私という泥のなかには、信仰が、古いハスのタネのようにひそんでいるかもしれない。〉(590頁)と書いている。
須賀敦子にとって文学と宗教とは、「分けて考えることはできるが、絶対に切り離すことができないもの」であることがよくわかる。
この二つをつなぐキーワードに、彼女は「古いハスのタネ」という言葉を選んだ。
信仰を、いつ咲くかわからない、しかしいつか咲くだろう花のタネにたとえる須賀敦子の感覚は、人間が「個」を生きて死ぬようになり、「散文」の疲れ、「論理」の疲れとつきあい始めて、ずいぶん時間が経った今の時代にこそ必要なのかもしれない。
▼きょうから明日にかけて、「平成」から「令和」に元号が改められる。
各メディアのニュースでは「三種の神器」が仰々(ぎょうぎょう)しく報じられた。この一連の儀式自体が政教分離違反ではないか、というごく自然な疑問は、わが国のマスメディアからはほとんど消え去った(ゼロではないが)。
「宗教の代用品」を捜す「個」の時代は、しばらく続くだろう。
「個」が、「国家主義」や、「優生思想」や、「役に立つかどうか」で人の生命を選別するような淫祠邪教(いんしじゃきょう)に絡めとられないために、どれだけ努力してもしすぎることのない時代である。
(2019年4月30日)