モノを減らす、ということ。
最近、色々な本をナナメ読みしている。
小説、人文系、哲学、心理学、社会学、政治、暮らし、エトセトラエトセトラ。
そういう忍耐力に欠けた読み方をしていると、雑然としたカテゴリ同士が何かで結ばれることがある。
ミニマリスト、断捨離、公共財『コモンズ』という概念、そしてルソーが考える『自然状態』。
僕のナナメ読みによれば、ここには共通しているなにかがある。
そんな予感がした。
それはたぶん、『所有すること』についてだった。
例えば、子供のころにおもちゃを買ってもらったことがある。
自分のものとして買い与えられたこのおもちゃを、友達や兄弟に無断で使われる。
そういう状況になれば、アヤト少年はたいそう腹がたったことだろう。
でも今、図書館の本が誰かに借りられていてもそんな気は起きない。
「なあんだ、残念」と思うだけだ。
だって自分のモノじゃないのだから。
朝起きたら、本棚にある『ドロヘドロ』や『スティール・ボール・ラン』が、なくなっている。
そうなったら当然、怒る。
怒るというか、シンプルに恐怖。
でもよく考えてみれば、この怒りとか恐怖とか悲しみとか絶望とか疎外感とか無力感とか殺人衝動とかは、すべて『自分のモノが盗られた』という気持ちと繋がっているのかもしれない。
であれば。
『自分のモノ』が限りなく0に近い状態なら、こういう感情たちはそもそも起こらないのではないか。
その世界では仮に朝起きて、部屋に知らないおっさんがいても、不思議に思わないのではないか。
「アヤトくん、『ドロヘドロ』面白かったヨ。ボクはやっぱり能井が好きカナ」
「そりゃ、よかったです。ところでどこで僕の名前を?」
「いやだな、君の財布の中身をみればわかるヨ。ホラ」
「たしかにそうですね」
「今日は『TheBOOK』を借りていくネ。乙一の」
「それ僕が今日読み返そうと思ってたんですが」
「まあいいじゃないノ。減るもんじゃなし」
こういうことがあっても「なあんだ、残念」と思うだけで済むのではないか。
それはなんだかとても、不思議な感じがするのだった。