体や言葉が変わっても、自分は自分と言えるだろうか?
先日、伸びた爪を切って小瓶に保存して日付を記録していると、ある考えが頭に浮かんだ。
それはこの、自分の体についてだった。
ひと月前の爪と、たった今切った爪は、当然ながら同じものではない。
ヒトの体の細胞は、4年ですべて入れ替わるという話を聞いたことがある。
爪なんかはしょっちゅう切っているから、もっと短い時間のはずだ。
それならば、僕を僕たらしめる約60兆の細胞はコンビニの陳列商品さながらの出入りを繰り返しているということになる。4年もたてば、アルバイトの顔ぶれすらぜんぜん違うだろう。
それはもはや別の店舗ではないのか。
例えば目が覚めたら、体がカメになっていたとする。
カメになった僕は人間社会で生きていくことはできず、やむなく近くの川に逃げ込む。
そこにはカメの社会があった。
彼らとコミュニケーションをとろうとしたら言語もカメ語になるわけで、その言葉は僕ら人間のそれとはずいぶん違う。
『サピア=ウォーフ仮説』というものがある。
簡単に言えば『違う言葉を使うと、考え方や価値観が違ってくるよね』という言語学の考え方だ。
つまり僕がカメの言葉を話すとき、思考はカメ、志向もカメ、嗜好すらカメになってしまう、ということだ。
そのとき、僕はカメだけが知る概念、人間にとって未知の領域に足を踏み入れることになる。
それは、たとえば長生きの秘訣とか藻のおいしさとかそんな些細なことかもしれない。
しかしそれを知った僕は、人間だったころの僕と言えるだろうか。
精神というものは、そんな肉体や言語に左右されるくらいあやふやなものなのだろうか。
そんなことを考えていると、とんでもない小説のアイデアを思いついてしまった。
主人公は少年少女の二人なのだが、ある朝目覚めると、彼らの体が入れ替わってしまうというものだ。
これは画期的アイデアに違いない。
インスピレーションが止まらない。
大ヒット間違いなしだろう。
さっそく執筆作業に移りたい。
映画化したあかつきには、主題歌を大人気バンドにお願いしようと思う。
RADWIMPSあたりがいいだろうか。