『下心』でも『偽善』でもいいよ。
『下心』という言葉のイメージは、悪い。
だけど僕は物書きである以上、汚れたこの言葉を両の手のひらですくいあげ、本当に汚れているのか確認する必要がある。
僕はこの言葉を、世間とは少し違ったふうに捉えている。
まずサジェストキーワードをみてみる。
『下心 意味』
『下心 気持ち悪い』
『下心を見せない男』
『下心あるか 診断』
うん。こんなものだろうな。という感じ。
厄介者、といった風情だろうか。
でも同じく世間から爪弾きにされている僕のようなものは、スラム街の雑居ビルがひしめく路地裏でこの厄介者と顔見知りになる。
このサジェストが教えてくれるのは、とにかく『下心』を締め出したいという意志だ。
まあ、それもそうだろう。
『下心』というのは、人間の本来的な欲求の領域なのだから。
「あの子とセックスしたい」
「金を儲けて、贅沢なくらしがしたい」
「モテたい」
これらをいかに締め出して、クリーンな関係を築けるか、という挑戦をみんなでしているとも言える。
でも最近は、ちょっと拒否反応みたいなものが増えているように思う。
「気持ち悪い」とか「見せない」とか、あるかどうか診断するとかは、そもそも、存在に蓋をしているだけではないだろうか。
だから結局、自分の中の『下心』の存在を否定することになる。
でもそれはお腹が減っているときに、「お腹は減っていません」と自分に嘯くようなものではないか。
僕は『下心』の存在を肯定している。
だってそれは生き物である以上、しかたのないことだし。
でもそうして見てみるからこそ、人間には単なる欲求というだけでは説明できない何かがあることにも気づける。
この考え方は『偽善』を肯定することでもある。
『偽善』も『下心』とともに、よく路地裏で安酒をあおっている仲だ。僕は毎日そこへ足を運んで「今日も元気そうだね」と声をかける。ときには一緒に腰を下ろして、駄弁ったりする。
そんなイメージ。
「なあ、兄弟。性欲に任せてつきあった女を大切にするのは悪いことか?」
「人を大切にするのは、いいことだとおもう」
「おれなんかこのあいだ、善いやつに見られたくて、ばあさんにバスの席ゆずってやったぜ」
「きっと感謝してるよ」
「おれらがこんなところに追いやられているのは、金がねえからだ。きっとあそこの店の連中はおれらのこと、ワンカップブラザーズとか言って笑ってやがんだぜ」
「じゃあ稼げるように努力しなきゃね」
「ああ、そうだな」