もっと、普通でいい。
普段、小説を読んでいると「なんて素敵な表現なんだ……」とおもわず感嘆することがある。
そういう部分には線を引いたり、書き留めたりして、感動を残しておく。自分が書くときも、そういうものを常に作り出せるように。
「思いついた言葉ではなく、もっと難解な熟語を入れよう」「比喩表現にひねりが足りないから、もっと考えるべきか」みたいに。
でもそうやって書いたものを、自分で読み返して思う。
「読みにくいな……」
凝った文章というのは、難解な映画と一緒で読む方も疲れるものだ。
そしてそれは、手を動かしているときにもある。
言葉が喉の奥につっかえて、出てこないような感覚。
僕の文体の目指すところは、乙一さんである。
彼の文章はなんというか、平熱なのだ。淡々としている。
あくまで『情報を扱っているだけ』という雰囲気がある。
特に、立ち止まって何度も読み返すような箇所や、難解なレトリックなどはあまりない。
それは彼の作家性が、ストーリー・テリングに比重を置いているから、ということももちろんあるのだろう。
でもそんな作品であっても、文章力、描写力の豊かさみたいな『熱』を、たしかに感じられる時があるのだ。その『熱』はいったいどこからくるのか。
僕は、知人に自分の作品を読んでもらうことがある。
そのときに、「もっと簡単でいいんじゃない?」と言われたことがある。
正直言って、はじめはそれを素直に受け入れられなかった。「やりたいことを、わかってないだけだろ」
でも思うようになった。「それだけじゃダメなのかもしれない」
これだけ長いあいだ、文章を書いていると、表現に関して『一家言ある』という自意識が芽生える。
でも本当に文章が巧みなひとというのは、違うのではないか?
簡単なものを難しく書く、のではなく、難しいものを簡単に書く。
少なくとも小説においては、そう考えることができる。
『普通』でいいのだ。
『普通』だからこそリアリティがあり、『普通』だからこそ伝わるものがある。
そして『普通』という言葉は案外、普通じゃない。
人にはそれぞれの考え方があり、常識があり、正しさがある。
つまり、人によって『普通』は異なるのだ。
だとすれば、わざわざ自分で自分の『普通』を捨て、「特別であろう」とする必要はないのではないか。
他人の『普通』は、僕にとっては面白いものだから。