2003年の彼らは間違いなく仙台のヒーローだった
宮城で生まれ育った私には、忘れられない野球の試合が2つある。同郷の人には推測できるのではないだろうか。
もちろん一つは2013年、星野監督の元、楽天ゴールデンイーグルスが日本一に輝いた時の試合。
もう一つはそれからさらに遡ること10年、2003年の夏、東北高校が惜しくも優勝を逃した高校野球大会である。
今回は高校野球をテーマに、後者の思い出について熱く語りたい。
仙台に奇跡が訪れることを予感させたひと夏の青春を。
当時私は高校一年生だった。それまで全く野球に興味がなかったのに偶然か必然か、私は再放送されていたアニメ「タッチ」にハマっていた。
野球って、高校野球って、甲子園って、激アツ。
語彙力に乏しいもので、これ以上どう表現したらいいのか分からないが、甲子園を目指して邁進するタッチャンの姿に胸を打たれていた。野球のルールを覚えたのもタッチのおかげだったように思う。
にも関わらず、まさかその夏、甲子園どころか決勝まで連れてってくれるダッチャンという存在を知らずにのうのうと過ごしていたのだ。
ダッチャン、そう、かの有名なメジャーリーガー、ダルビッシュ有である。
東北高校にすごいピッチャーがいる。
そんな噂を聞くようになったのは春の甲子園が終わり、夏が近づき始めた1学期の頃だった。
今年の東北高校はすごいらしい。そういう噂とともに決まって耳にするのが「ダルビッシュ」という名前である。
まだタッチ熱くらいしか燃え上がってなかった私は、ふうん、くらいにしか感じてなかったように思う。
ダルビッシュよりも何よりも、タッチャンと南の淡いラブストーリーに夢中だったからだ。
おそらく顔も分からなかった。
クラスの女子が、ダルビッシュだマカベッシュだと騒いでいても気にならなかったのである。
マカベッシュ、のちにダルビッシュとともに夏の高校野球大会の階段を駆け上がっていくもう一人の立役者、メガネのピッチャー・真壁賢守である。
では、私はいつ彼らに注目し始めたのだろう。
実を言うと、非常に記憶が曖昧なところである。県代表が東北高校に決まり、そろりそろりと県内が注視し出した頃かもしれない。
もしかしたら、もしかするかもしれない。
今年、白河の関を越えるかもしれない。
どこからともなく県内各所から湧き上がってきた期待。
そう、東北地方は春夏合わせて未だに優勝したことがない。東北に優勝旗が来たことが未だかつてないのだ。
その優勝旗、今年はもしかしたら東北高校が持ち帰ってくるかもしれない・・・!
県民がじわじわと期待を寄せつつ、どこか「いやいや、まさかね」と笑いで打ち消しあう、そんな空気が蔓延していた。
全国高等学校野球選手権大会が始まるまでは・・・。
先に言っておこう。
私の高校一年の夏の思い出は、高校野球に始まり高校野球に終わった、と言っても過言ではない。他にこれっぽっちも記憶がないのである。
私がおそらく東北高校の試合を見たのは、対近江戦くらいかと思う。初戦ではなかったことは確かだ。
同じく野球に興味のない母が、リビングで「今日東北高校だから見てみようか」くらいのテンションで流したことがキッカケだったと思う。
そもそも初戦突破した時点で凄いこと、いつ負けてもおかしくない、だからせめて出てるうちは見よう、ダルビッシュとやらを見ておこう、その程度のものだった気がする。
よし、じゃあ見てやるか。
上から目線でリビングのソファーに集結。夏の暑い日、太ももの裏に汗をかきながら姿勢を変え変え応援した。
結果、熱中した。ものすごく胸を熱くして応援した。
そう、野球って、高校野球って、甲子園って、激アツ。Part2。
ドラマって、アニメの中だけじゃないんだ。人生で初めて、生身の野球の試合に感動した。野球がこんなに面白いものだと知らなかった。こんなに緊張と興奮と感動が一気に打ち寄せてくるドラマだったとは。
ダルビッシュだけじゃなく東北高校の一人一人に凄みを感じる。
今年の東北高校は違う。みんなが口を揃えて言う、その意味がやっと分かった。
その年、東北高校は快進撃を見せた。出る試合、出る試合、「なんとか」勝ち抜く。
どの高校ももちろん強い。手に汗握る試合展開ばかりだったように思う。
平安戦は0-0が続き、延長11回でやっと1点を手に入れ勝ちを決めた。
ダルビッシュもきっと今よりずっと弱かったはずで、応援する側から見れば強いのに不安定。だからハラハラしたし夢中になった、のかもしれない。あの線の細さ、不安定さは高校野球ならではだ。
当時ダルビッシュは「鶴みたい」と私の周りで言われていた。細長い体の先っちょに頭がついた鶴みたいなスタイルだった。
それでも勝ち続けられたのは、真壁くんであり、佐藤くんであり、横田くんであり、宮田くんであり・・・東北高校一人一人の勝ちにこだわる姿勢が強かったからだと思う。
外からはダルビッシュだけが一人際立ってるように見えたかもしれない。今までもずっとそうかもしれない。でも、一人一人がヒーローのように活躍していたことは間違いない。
(話は逸れるが、私は上杉達也の後はショートの宮田くんに夢中になっていた。)
東北高校は東北対決と言われた準々決勝の光星学院戦も勝ち抜き、全東北の期待を背負って決勝戦へとコマを進めた。
決勝戦の日、私はまたソファーにいた。
ソファーの上で突っ立っていた。高校生にもなって。
居ても立っても居られない。だって今日、もしかしたら白河の関を越えてしまうかもしれないんだもの!
高校一年生の夏の青春が今、始まろうとしていた。
きっと私は飲み物も食べ物もソファー周りに周到に準備したことだろう。絶対にテレビの前から離れないことを決めていた。一瞬たりともその試合から目を逸らさない。最後まで見届ける。
数週間前までダルビッシュの顔すら知らなかった女子が、今やチームメンバーの顔も名前も覚えてしまった。
一人一人のコンディションを心配するまでに没頭していた。
ダルビッシュは西の人間だから暑さになれてるだろう、しかし東北で生まれ育った子は西の暑さになれとらん。大丈夫だろうか?
東北の人間は、翌年マー君(駒大苫小牧)が優勝するまで、寒い地方は甲子園で勝てないと信じ込んでいたのではないだろうか。
甲子園は暑いから勝てるわけなかろう、とそれを心のどこかで言い訳にしていた。
だから不安だったのだ。夏の短い東北で練習していては、本番体が持つだろうか。いや、持つわけなかろう、と。
いやしかし!もう舞台は決勝戦!持ってもらわないと困る!
ああ!でも心配!だってここまで戦ってきたのも彼らだから!
ハラハラであった。野球は、とくにトーナメント戦の高校野球はハラハラの連続なのだ。と知った夏でもある。
相手は常総学院。
どちらが勝っても初優勝。
手を合わせ、天に祈る気持ちで最後まで見届けた。
2時間後、東北高校は負けた。
先制したのは東北高校だったが、4回に点を超され、その後も差が埋まらないまま8回に追加点。
9回の裏、点を入れられないまま静かに幕を閉じた。
2003年8月23日、東北の夏が終わった。それはあっという間だった。
目の前まで来ていた優勝旗。
白河の関は越えられなかった。
後日、私は仙台空港で朝日新聞社の旗を振って立っていた。列を作り、今か今かとその時を待つ。
静かに、彼らは私たちの前に現れた。
ありがとうとお疲れ様を言いたかったけれど、彼らの俯きがちで悔しそうな表情、周りの空気とあまりにも近い距離に、私は緊張して何も言えなかった。
ダルビッシュもとても静かに私の前を通り過ぎた。
とても大きいのにとても静かで、目の前を通り過ぎて初めて「あ、この人ダルビッシュだ」と気付いたほどだ。
一瞬の出来事。あっという間に彼らは空港を後にした。
もう20年近く経ってしまった。あの時から倍生きてしまったことになる。
負けたのに、優勝してないのに、あの時、私の夏を色鮮やかに彩ってくれたことは揺るぎのない事実だ。
今思い出しても悔しくて悲しい夏だったけれど、彼らは間違いなく宮城に感動を与えてくれた。
20年近く経ってしまったけど、まだ直接言えてなかった。
ありがとう。
と、30過ぎたかつての球児たちに伝えたい。
届きますように。