ゴールのない散歩 ゴールのある人生設計
休職中の身だが一応次の仕事先も決まっているので、出勤訓練を兼ねた散歩を時々行っている。散歩を意識的にしようとしても、なかなか腰が上がらない。コロナ禍でも普段と全く変わらず家に居続けることができた(母親にお願いだから家から出て行けと言われるまで引きこもってた)ので、家にいることが自然状態なのだと思う。
散歩で一番苦手なのは、ゴールを設定しないと外に出られないことだ。まず、ここの店でこういうことをするという目的を定めた後に、その過程として散歩を選ぶことがほとんどだ。ゴールのない散歩をしてしまうものなら、どこで引き返すのかばかり考えて気が散ってしまう。1時間かけて歩いたら、1時間かけて戻るのが嫌になってしまう。趣味が散歩の人って、どんなモチベーションで外に出ているのだろう。
出勤訓練としては、とりあえず職場最寄りまで電車で向かった後、なんとなく大きな駅を目指してただ歩くようにしている。そうすれば行き先が決まっているので、あとは余計なことを考えなくていい。そうすると、平気で2~3時間は歩けるようになる。(ごめん、全然平気じゃない。30分ごとの休憩入れてる。)
散歩に関しては目的を決めないと動けないのに、仕事・人生とかで目標を決めさせるのはめちゃくちゃ嫌いである。
仕事の中で自分のキャリアを設定するなんてことは何度もあったが、大体時間をかけて悩んでは、今やっている業務の延長線上になることを適当に考えそのように設定していた。
キャリア構築の授業にも参加したことがある。「バックキャスト思考」の練習で、「こうありたい姿」をかんがえさせられたが、そんなものはない。強いていうなら今が理想の状態なので、「ありたい姿」の押し売りなんて困るんですわ。大体、あなたたちが「VUCA」とか「不確実性」とか将来の予測できなさを散々煽っているのに、なんで自分の将来まで予測しなあかんねんって話なんですよ。おれにとっての理想の未来は1時間後の飯の時間です。
ともかく、目標の設定そのものがどうしようもなく嫌なのだ。だから、資格とか勉強するときは、勉強した先になんとなくおまけで資格が付いてくるって風に考えないとやってられない。(でも資格取得しないとそもそもやっている意味がないと思っちゃうから難しさはある。)
何かの勉強をしてちょっと上達したら、次のことを考える。将来の設計なんてそんなものでイイと思うのに、なんで5~10年後のことなんてかんがえなくちゃならないんだろう。
ここまで書いて気づいたが、散歩のゴールとキャリアのゴール設定では、空間か時間の違いがあるなとは思った。
「この地点を目標とする」という設定は、いつ着いてもかまわないし、どういう過程で向かうか選択する余地がある。ただ、その設定に「~~いつまでに?」という条件が足されることによって、焦りは生まれるし、なんとなくより素早い方法で向かうことを迫られることになってしまう。
まあ、仕事だって受験勉強だって、期限は設定されているので、そこに対して要求されるのは分かる。でも、人生においてでもいつまでの条件は必要なのだろう?確かに死っていう期限は設定されているが、そんなんいつくるか知らんし…。
面倒くさい条件によって行動が制限されるのなら、条件ごと撤廃してただ生きていた方がしっくりくる。
つまり、人生設計のゴールも「なんとなくこれやれたらいいな~」位の空間的な設定でかまわない。
10~20年後の自分なんて幻なんだから、消えてなくなれ。