母と柑橘
毎年柑橘の季節になると、実家の母を思い出す。
母はとにかく柑橘好きだ。「柑橘駅伝の監督でしたっけ?」と疑うほどに、全力で旬のリレーの伴走をする。極早生みかんに始まり、冬ははっさく、春には甘夏がたすきをつなぎ、我が家の食卓を駆け抜けていくのだ。
食後、母はどこからともなく季節の「注目選手」を持ち出して、子どもたちの前にスッと差し出す。
「食べる?」
ぶっちゃけ、いらないんだよなぁ。
果物に無関心だった当時の私には、大小さまざまな柑橘はどれも同じに見えた。どうせ食後に食べるなら、アイスがいい。でも、母の手にはすでに包丁が握られているので、仕方なく頷く。
母が好む柑橘たちは、みな鉄壁のような厚皮をまとっていた。素手ではとても剥けないその手強い厚皮を、柑橘好きでもない私たちのためにせっせと剥く母。私だったら、絶対にやらない。
仮に、私が厚皮を剥いたなら。
肉体&精神的ダメージを算出すべく、頭の中でそろばんを弾いてみたところ【ダメージレベル10,000,000】という答えが出た。母、すげェ……
厚皮界の重鎮と対峙する母は、いつだってスーパーマンのようだった。【ダメージレベル10,000,000】の行為をたやすく請け負うだけではない。母はいつだって頼もしくて、なんでも知っていて、私を導いてくれるのだ。
母は涼しい顔で厚皮を剥くと、薄皮まで丁寧に取り除き、瑞々しい果肉を皿に並べた。至れり尽くせりのサービスに、なんだか姫になったような、ちょっと申し訳ないような気持ちになる。
皿の柑橘を口に運ぶと、母はニッと笑って、自分の口にも剥きたての果肉を放り込むのだった。
スーパーマン、引退する
母がスーパーマンじゃなくなったのは、小田急線で新宿から町田方面に向かう電車の中だった。
大学に通うための新居を契約しに、母と東京に向かう。乗り換えで降りた新宿駅は、人で構成されるタイプの樹海だった。見渡す限りの人、人、人。「母を見失ったら死」という恐怖で全身がこわばる。
目的地行きらしい車両に乗り込んでしばらくすると、車内の人たちが急に向かいのホームの電車にぞろぞろと乗り換えていった。え? なんで……? 謎めいた都会ルールに、心がざわつく。
「みんな、なんであっちの電車に行くのかな?」
ドキドキしながら小声で母に聞くと、母は「この電車に乗っていればちゃんと着くから大丈夫よ」と答える。母がそういうなら、大丈夫なのだろう。母がいてくれれば、なにも怖くない。母がいれば、いつだって大丈夫。母がいれば——。
都会の謎ルールに従う人たちを見送り、電車に揺られること1時間。母の言う通り、ちゃんと目的の駅に着いた。私たちは不動産屋に勧められるまま、相場より高い新築のアパートを契約した。
東京に住み始めてすぐに、都会ルールの真実を知る。なんてことはない、あの大移動は、急行待ち合わせの駅で、各駅停車から急行電車に乗り換えていただけだったのだ。
母は、完全無欠のスーパーマンではなかった。少なくとも、都会には母の知らない世界がある。これから私が生きていくのも、母が知らない世界なのだ。
都会で暮らし始めると、実家のゆったりした時間が妙に居心地悪くなり、母とも距離ができた。「成長」だとか「生きがい」みたいなものを声高に叫ばない環境に身を置くと、頑張れなくなりそうで怖かったのだ。東京での生活が長くなるほどに、母はどんどん遠くなっていった。
母は「人間」だった
精神的に母離れをした12年後、私は里帰りをして子どもを産んだ。
久々の実家では、相変わらず母が私にとっての【ダメージレベル10,000,000】を日常的にこなしている。もっと手を抜いたらいいのにと思いつつも、産後のサポートは正直めちゃくちゃありがたい。
息子のかわいさは、今まで体験してきたどんなエンタメより圧倒的に私の心をとらえた。人類が摂取していい「キュン」の限度を、毎日確実にオーバーしている。
愛おしさ中毒になりそうだったが、実際、体の一部が痛みがひどく痛む。胸である。息子の命の源が日々胸で作られているのに、息子は全然上手に飲んでくれなかった。
「赤ちゃんが乳から栄養を摂取するのは都市伝説である」という論文の構想を夢想しつつ痛みと闘っていると、母が「とにかくオケタニに行こう」と声をかけてきた。オケタニ……?
母が言うには、オケタニ=桶谷式という母乳マッサージの手腕に長けた超人助産師集団で、母も授乳時代に大変お世話になったらしい。少しでも楽になるならと恐る恐る行ってみると、数十分後に痛みが消え、ガチガチの胸がフワッフワになった。
希望の胸に息子の唇をあてがうと、差し出せど拒否しっぱなしだった息子が「チウ」と上手に吸い始めたのだ。あまりの喜びに「見ました? 今、飲みました! 初めて……初めて飲んだ……!」と、大騒ぎであった。
母のアテンドに、心から感謝した。12年前にスーパーマンから引退させていたはずの母を、また勝手に現役に戻す。やっぱり母は、母なのだ。
新米ママとしてバタバタ日々を過ごしながらも、息子が寝ているときは、母と二人でゆっくり話をした。
「生まれてすぐ黄疸で母子別室になったとき、私があまりに泣くからパパもあわあわしちゃってさ。あのときは、自分のせいかもって、落ち込んだんだよね」
知っている話も、自分も母になった今改めて母から聞くと、響き方が全然違う。私の記憶にいない、「人間としての母」がそこにいた。
父との馴れ初めや、母フィルターを通した昔の自分を知るのも面白かったけれど、母の育児の奮闘や不安、悩みや葛藤の数々の話は、どれも新鮮だった。一緒にいた18年の間に、私が知らない母がいたのだ。
育児だけじゃない。学生時代、結婚、そして仕事……私が歩み、悩んできたどの場面にも、同じように悩む母の姿があった。別々の時間軸、別々の人生なのに、聞けば聞くほど、母は私であり、私は母だった。
不安だらけで未知だった未来に、母の足跡が見える。私は一人じゃない。
「食べる?」
不意に、母が柑橘を差し出す。最近は手で剥けるタイプが増えているのに、相変わらず皮の厚い柑橘を好むようだった。
「うん」
母がプシュッと皮に包丁を入れると、爽やかで甘い香りが広がる。薄皮まで丁寧に剥きかけた母を「もう子どもじゃないんだから、それぐらい自分でやるよ」と笑って制すると、母はポカンとした顔でいった。
「そう? アタシが食べたいんだから、別に一緒にやるけど。アンタのはついでよ、ついで」
お言葉に甘えて、薄皮まで剥かれた果肉を食べる。甘酸っぱくて、ほろ苦くて、でも、心がスッと軽くなる。それは懐かしい、母の味だった。
巡る未来
里帰りは全部で3回した。3人の子どもたちはみんな、果物が好きだ。
私も、大人になってから、日常的に果物を食べるようになった。年齢のせいか、母の血がたぎるせいかはわからないけれど、気づけば旬の果物を追いかけている。柑橘に関して言えば、私はまだあの鉄壁と薄皮を引き受ける気にはならなくて、つい子どもたちが自分で剥けるものばかりを選んでしまう。
いつか彼らが大人になったとき、その食卓に果物があるだろうか。そして親になったとき、自分の子どもたちのために、旬の味わいを差し出すだろうか。
未来は巡る。その未来に、どんな記憶がまとうかはわからないけれど、想像すると愛おしい。
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毎年柑橘の季節になると、実家の母を思い出す。今年も母は、せっせと厚皮を剥いているに違いない。
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