やさぐれた日の、豆腐白玉だんご
なんとなく気持ちがやさぐれている朝、というものが、きっと誰にでもあるだろう。今朝の私が、そうだった。
体調のせいか、天気のせいか、いつかのモヤモヤが一部しぶとく居座っているのか。理由はわからないけれど、気持ちよく一日をスタートできない。強めのため息で家中の小物が吹き飛びそうだし、吹き飛んだ小物が窓を突き破って下に落ちたとして、歩行者の安否など気にしていられない。
そんな朝は、考えるより先に、手が白玉粉を探してしまう。
朝ごはんに、白玉だんご。
基本属性はおやつ界だけど、味付け次第では朝もいけるのだ。甘さを控えたあんこやきな粉はもちろん、くるみや胡麻と和えてもいいし、醤油と海苔や、納豆と食べてもおいしい。餅の延長と考えてもらえたらいいと思う。秋は、だんごが似合う季節でもある。
ポイントは、こねるときに水ではなく豆腐を使うこと。木綿でも絹でも、どちらでもいい。豆腐臭さはまったく気にならない。
豆腐白玉だんごなら、朝もしっかり摂りたいタンパク質が補える。そして、まだ餅が心配な年齢でも食べやすい。何より、作ることを通して心が穏やかになれる。元旦のスタメンであるスター級の餅をもしのぐ可能性に満ち溢れている。
朝ごはんとしての頻度としては少ないが、そんな豆腐白玉だんごに光を当てたい。
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大きめの鍋で湯を沸かし、無の境地で、ボウルに白玉粉を入れる。本来は、そこに少しずつ水分を足していくのだけれど、やさぐれているのでセオリーは無視。豆腐を半丁ほど、どん! とワイルドにぶっこむ。
ボロボロと硬い粉の塊、そして豆腐——厄介なことに、スタート時のこやつらは、まったく相入れないのである。
相手に馴染もうと懸命な豆腐に対して、白玉粉の頑なさといったら。こねてもこねても豆腐の水分を跳ね返すので、正直白玉粉サイドのやる気を疑う。
「アンタたちさ、白玉になる自覚あんの?
そんなことだと、人生、団子未満で終わっちゃうよ?
思いきって受け入れてみろよ、豆腐をよぉ!」
実際は、ここに書いた100000倍ぐらいの煽りで、オラつきながらこねる。すると数十秒後、ずっと反発し続けていたはずの粉が、ふと心を開いたかのように豆腐ともっちり融合していくのだ。
このツンデレが……!
融合の瞬間は何度味わっても実に胸熱だ。団子と豆腐の両界隈は感動の渦。頑なだった彼らの時代を知るからこそ、こちらとしても込み上げるものがある。私は仲介者として、そっと彼らにハンカチを差し出し、一緒に熱い涙を流すのだ。
融合した生地をちぎっては丸め、またちぎっては丸め——無心で白玉を作るのは、まさにセラピー。リズムに身を委ねると、雑念が静かに消えていく。
白くて柔らかく、丸くて小さいものを生み出していると、不思議と手つきも優しくなる。やさぐれていた気分では、こんなにかわいいものは作れないものなのだな、としみじみ思う。
こねタイムの頑固さには面食らうものの、融合したあとの白玉たちの進化についても触れておきたい。
丸めた白玉のお腹をムニっとすこし潰し、沸騰したお湯にくぐらせて約3分。いい頃合いになると、沈んだりフラフラしていた白玉たちがひょっこり水面に顔を出す。
「火、通った人ー?」
と、こちらが様子を伺うまでもなく、
「もういい感じよー!」
「食べごろよー!」
そんな風に、自ら口々に主張してくれる。
かつての反発など微塵も感じさせずに、NEW白玉だんごとしての自信に満ちた新しい生命体が、生き生きと仕事をしているのである。
こんなに協力体制抜群な食べ物あるだろうか? 「作り手に寄り添う食べ物選手権(もちもち部門)」があったら、ぶっちぎりで優勝している。圧倒的成長っぷりに、団子と豆腐の両界隈、また歓喜の涙。ハンカチ役も忙しい。
火の通りを全身で表現すべく、鍋の中でクルクル回っちゃったりなんかして。おーいこっちだぞー、こっちも大丈夫だぞー、つって。くるくるクルクル、元気いっぱい。愛おしすぎて胸が苦しい!!
料理をする人なら、誰でも一度は「これいつまでやればいいの問題」の壁にぶち当たったことがあるだろう。
加熱の具合や、火を落とすタイミング。余熱の読み方や、「よ〜く混ぜる」の程度感など、無数の壁が立ちはだかるのが料理だ。
でも、安心してほしい。白玉なら迷わせない。浮かべばOK。なんなら、茹ですぎたところで、そっぽを向いたりひねくれたりしない。こういう人と、共に人生を歩みたいものだ。
主張した子たちを冷水にダイブさせたら、戯れタイムである。ムツゴロウさんよろしく、白玉たちを「ヨ〜シヨシヨシ」と思いっきり手で愛でる。
艶やかな白玉たちに触れる頃には、最高の一日のスタートを切っていることに気づく。もちろん、食べたっておいしいわけで、ここまでくればもう、安心なのである。
いつも、そうなのだ。白玉だんごは、必ずここまで引っ張り上げてくれる。やさぐれている朝には、この揺るぎない寄り添いがほしい。だから、白玉粉のストックを、私は決して切らさない。
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こねたり丸めたりしていると、たまに子どもたちがやってきて、「やりたい!」と言い出したりする。バタバタな朝でも、不思議と白玉だんごのお手伝いなら「どうぞどうぞ」と笑顔で受け入れることができる。
これも、白玉だんごの魔法なのだろう。
優しくされた人は、人に優しくできる。白玉に寄り添ってもらった私は、子どもたちにも自然とそうできるのだ。
忙しない日々の中で、子どものやりたいことを肯定したり、見守れることばかりではない。「ちょっと待って」「早くして」「だめ」と言ってばかりの自分でも、白玉作りのときだけは、全力で「いいよ」と言える。その事実に、自分自身も癒されている。
茹でる頃にはすっかり別の遊びに夢中な子どもたちを横目に、鍋の中でふわりと浮かび、クルクル踊る白玉たちを眺める。
次、いつまたやさぐれた朝が訪れるかはわからない。それでも、白玉粉だけは切らさないようにしておこう。
遠くで響く笑い声を聞きながら、そう強く思うのである。
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