抽象度というものさし
宇宙に行きたいか?行きたくないか?と聞かれたら、行きたくない派である。
したがって、天文学への興味は小さい方だ。
今朝、小学一年生の息子が、天体のことを話題にした。「しんちゃん(←私のこと)、ハヤブサって知ってる?宇宙のやつ。」聞けば、学校で地域イベントのアナウンスがあったようで、地元明石駅前で開催中の実物展示のことだと、すぐにわかった。
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自分のことより、家族のこと、家族のことより地域のこと、地域のことより、国のこと…大きな単位で物事を捉えた方が、より大きな力が湧き出る。抽象度と言われる尺度を学んだことがある。
40を過ぎて、ようやくその糸口が掴めてきた気がする。
得よりも、為をとる。
自社のことより、業界のことを。
ひとりごとより、みんなごと。
有名な近江商人の三方よしも、確かにみんなごとだし、故郷のことを考える時の視点も、角度が変われば、変わってゆく。
地球の中のアジア
アジアの中の日本
日本の中の近畿
近畿の中の兵庫
兵庫の中の播磨
播磨の中の明石
とまあ、こうなるのだ。地方議員が地方のことを考え、国会議員が国の行末を案じることは、自然の摂理なのかもしれない。
広い視野で見れば見るほど、利己より利他を重んじる気持ちが湧いてくる。けれど、自分あっての世界なので、自己犠牲が過ぎてはならないのは、大切なこと。
グローバリズムより、ローカリティの話をするのが好きだけど、グローバルな視点がなければ、ローカルの特長も見えづらく、その逆もしかり。
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ハヤブサのこと、宇宙のことに想いを馳せることは、小さな30センチの竹定規を、世界で一番大きな物差しに、持ち変えることに他ならない。たまには、それも必要である。
いにしえの先人たちが、お月見をして竹取物語を創作した頃のようには、まちから夜空が見え難くなった。上を向いて、空を見上げる機会も減ったことだろう。
けれども、虫眼鏡を覗き込むような毎日の中に、宇宙に想いを馳せるような、大極的な見方をする時間、歴史を感じるような時間が必要かもしれないな、と思うのである。
イッテコイと言うか、イッタリキタリと言うか。そう言う気持ちの幅の話である。
宮沢賢治のようになりたいとは思わないけれど、今度の休みに息子を連れて、ハヤブサを見に行きたいと思う。「でも、ホンマモンちゃうらしいで」レプリカであることを、前情報として仕入れてしまう今風の小一。そんな彼が、意外に目を輝かせて質問してくることを願って、苦手な天文学の予習でもしておこう。
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宇宙を知り、木の建築をつくる仕事がちっぽけだと感じる人もいるだろう。けれど僕らは、万葉詩人と同じように、住まい手が空を見上げることができて、そんな心持ちになれるような木の家をつくりたいと想っている。
私たち地域工務店が届けたい「豊かな暮らし」とは、月と地面を近づけることではなくて、その遠い道程に想いを馳せることにある、のではないだろうか。
追伸 早速に開場前の現場に下見。写真がハヤブサの実物大のレプリカである。こう見ると、御神輿のようにも見える。案外とアナログの集積なのかもしれない。
というか、絶対かつげるよね、ワッショイ。