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本屋で一目惚れしたあと、面倒くさい女の子のような夏の空を見上げた。

雨に濡れた週末が終わったと思ったら、
今後の週末は夏の日差しが戻ってきた。

女心と秋の空とはいうけど、
ぶっちゃけ秋の空よりも、夏の空のほうが起伏に富んでいて、
面倒くさい女の子のように見える。
面倒くさいというか、単に情緒不安定なだけかもしれない。
天気痛持ちの人からしたらいい迷惑だろう。
そうじゃなくても、連日の不機嫌な夏の雨は、
ただでさえ部屋に籠もる生活を強いられる身からしても、
気分をどんよりとさせるから苦手だ。

夏は、太陽と遠い青空と、天衝く入道雲さえあればいい。
入道雲があるってことは、篠突く雨があるってことだけど。

夕立は好きだ。
夕立のあと、どす黒い雲間に臙脂を吹き付ける夕日が好きだ。
虹をつけるとわざとらしく三文芝居っぽいかもしれないけど、
そういう、約束された、ささいな情景も嫌いではない。
何の話ってわけじゃない。単なる日記だ。
今日の私は、会社の最寄り駅に差し掛かる分かれ道で、
このまま帰ろうか、寄り道しようか、決めあぐねていた。
考えても仕方がないので、足が動いた方向へ行くことにする。
半歩だけ、最寄り駅に出向いたが、二歩分、左足が脇道に逸れた。
人の脳は、右脳と左脳があって、
右脳が左半身を、左脳が右半身を司る、というのはよく知られた話だけど、
寄り道をしたくなった左半身、その司令塔たる右脳は、
感覚と直感の脳らしい。逆に、左脳は分析と論理の脳だ。
寄り道って、その場の思いつきだし、直感の行動だって言われても腑に落ちる。
上手いこと、人体はできているのだなあ、とこの文章を書きながら感心する。
ちなみに文章を書く脳は、言語力が高い左脳とされている。
どうやら、寄り道の感想を記録するのって、右脳と左脳を満遍なく使役する行為だったらしい。
でも、左脳の記憶容量は少なくて、逆に右脳の記憶容量が巨大だから。
結局、どんな文章も、文字列も、イメージとして脳裏に焼き付いていくのだろう。
右脳は、詳細な文字や数式を苦手とするから、
いつの間にか、くっきりとしたイメージも輪郭がふやけて、
まるで、叩きつけるような夕立のせいで溶け出した、
路面上のチョークの落書きみたいになってしまうのだろうか。

砂文字が波にさらわれたときのようなセンチメンタルを、
常に心のどこかに抱いている。
波にさらわれていく、今この瞬間の思考を忘れてしまうのが寂しくて、
今日もまた、なんとなく、思ったことを言葉にしてみる。

本屋の海外文学コーナーでたまたま見かけた、
フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』を買った。
立ち並ぶ書棚には、無数の"一目惚れ"の瞬間が立ち並んでいて、
だから私は、本屋に行くのが好きだった。


さあ 金色帽子を被るんだ それであの娘がなびくなら
あの娘のために跳んでみろ みごとに高く跳べるなら
きっとあの娘は叫ぶだろ 「金の帽子すてき 高跳びもいかすわ
恋人よ あんたはあたしのもの!


タイトルとともに示された、トマス・パーク・ダンヴィリエの詩が決め手だった。
夏の初々しい、青春の一幕を描いた詩に、私の頭は上がらないらしい。

右脳の降伏宣言とともに、文庫本を買って外に出る。
真っ白な雲は、夕明りによって飴色のコーティングがなされていた。
そういえば、今年の夏は派手な入道雲を見なかったな。
八月の下旬、オフィスとハウスとの往来でめっきりかおを上げなかったこと、ちょっとだけ後悔してる。


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