『チェイサーゲームW2』で思い出した「百合好き男」批判
よくわかんないけど運命の最終回
テレ東初のレズビアンがどうとかの鳴り物入りで始まり、そのシーズン2となる『チェイサーゲームW2』が最終回まで放送・配信を終えました。
最後の最後まで怒涛の差別表現の嵐で、以前noteで書いたように、何故これが放送を許されているのかやはりよくわかりませんでした。
担当プロデューサー(監督)は「番組に対してメイルゲイズ(男性視点)という指摘があり、もっと第三者の意見を仰ぐべきだった」みたいなことを語ったらしいのですが、この出来を考えると第三者の意見程度で修正が効くレベルではなく、根本的な差別意識の反省から始めなければどうしようもないでしょう。
あらかじめ書いてしまうと、この制作陣はもう二度と女性同性愛表象に関わるべきではないと思います。微博では「“いつふゆ”は大好きだけど、制作陣は大嫌い。別の制作陣が“いつふゆ”を描いてほしい」みたいな言葉が飛び交い、もはやそれは正論の域にあるのではないでしょうか。
【1】 家父長制的家族観から離れられない制作陣による女への呪縛
樹が冬雨の娘の月ちゃんに対して、親としての感情がきちんと形成されたのかどうかがイマイチよくわからないまま、良妻賢母の役割にスッパリとシフトしていったことに私は首を傾げるばかりでした。朝食もお弁当(しかも愛妻弁当仕立て)も樹の仕事になっていますし、月ちゃんの幼稚園の送り迎えも樹の仕事です。
それに付け加えて、冬雨の月ちゃんを世話するシーンの少なさも異様でした。特にW2では、本当に何にもやりません。離婚前は夫に預けて好き勝手に婚外交際に励み、離婚後は樹にまるっと押し付けていました。月ちゃんとの将来を真剣に考えているのも樹の役目になっているというおかしさです。
これでは子どものことを全部妻に預けて自分は仕事のことだけを考えていればそれでいいやという、コテコテの家父長制家族観そのままであり、これを“メイルゲイズ”と表現してしまうのは、それはそれで家庭にエネルギーをきちんと注いでいる世の男性への侮辱でしょう。
そして、『チェイサーゲームW2』が終盤に樹を通して描いたのは、「女は子持ちになった瞬間に良妻賢母になるのが幸福である」という“女への呪縛”であり、レズビアン設定を用いた新たな差別構造の生産に頭が痛くなります。
【2】 一貫したミソジニーと、“メアリー・スー”レベルの男性礼賛
前のnote記事で「男性が活躍するGL」批判を紹介しました。『チェイサーゲームW2』は、とにかく女性が悪意的に描かれた一方で、最終話で突然登場した冬雨の父が「中国はこれから変わっていかなければならない」「その前に私達が変わろうではないか」と言って冬雨の母を諭すという男性の持ち上げっぷりで、本当にビックリしました。(そもそも、日本がやっていい表現ではない。)
月ちゃんがいじめられたのは「ママ友」という愚かな女たちが原因であり、冬雨が職場で嫌な思いをさせられたのも同僚女性や女性上司からによるもので、ついでに性格に難のある外部クリエイターも女性でした。仕事絡みの唯一の男性は中国の人という、都合の悪いことは中国に押し付けておけという相変わらずな態度も最悪です。
これはあくまで私がこの番組から受け取ったものから膨らませた想像にすぎませんが、制作陣は女性とレズビアン女性とを別の生き物として捉えているように思えました。そして、そこに浩宇のような「とにかく理解のある人格者の男性」を入れてしまうことにメアリー・スー的なものを感じます。このあたりを“メイルゲイズ”と表現してしまうのは、これまた自身の差別心としっかり向き合っている世の男性への侮辱でしょう。
【まとめ】 このドラマの徹底した男性の心地よさを考える
娘の月ちゃんは父を捨てた上に自身の家庭をそう大して重く見ない冬雨に対して反発することもなければ、機嫌を損ねることもありません。家父長の意識が強い人が見れば、このドラマはさぞ心地が良いでしょう。各人物の性別を取り替えると、昔の女と不倫して、そのまま慰謝料を請求されることもなく離婚を成立させ、子の親権も手放さないまま妻を入れ替えることに成功したクソ男のドラマです。苦難の部分は、クソ親が悪い、社会が悪い、中国が悪いと、何もかもが他者への責任押し付けで満ちあふれています。
そして、作中で過剰に差別される存在として描かれたレズビアンを支える役割を担うのも、やはり男性でした。女には理性がなく、普通は内心に留めておく差別感情を言動に出してしまう生き物なので、そこにはやっぱり男性の応援が必要であるという、制作陣からの熱いメッセージが『チェイサーゲームW』の“ミソ”なのであります。
百合って「男っ気無し美少女を要求する男の消費」とか言われてたよね
もちろんこれはメジャーな批判意見ではなかったと思うのですが、前は百合に対する批判として「他の男性の手がついていない美少女目当てに、処女好き男性が群がっている」みたいなのがあったような気がします。
最近ではそういう言説もめっきりと見かけなくなってきたのですが、とにかく処女好きの男性に都合がいい存在としての「百合」という偏見も一部ではあったような記憶があります。
まあ、一般の女性向け漫画でも、対象年齢が高めなものになってもヒロインに対しては初恋設定のヒーローなんかがかなり多かったりするので、キャラクターの過去の恋愛遍歴が煩わしいノイズとして捉えられているのに男女の境はあんまり無いというのが私個人の感想だったりしますが、それはそれとして置いときます。
この『チェイサーゲームW2』における男性にとっての都合の良さを見てると、レズビアン女性というのが「恋愛アプローチを拒否しても男性の尊厳は傷つけられず、それでいて男性が彼女たちのお助けヒーロー役になれる存在」といったような、一種のフェアリーとして捉えられているように感じました。それ故なのか、レズビアン設定ではない女性はやたら悪意的に描かれる傾向が強く、そのあたりに制作陣による何かしらの鬱憤晴らしも感じずにはいられませんでした。
思い返すと、この構造は『チェイサーゲームW』制作陣だけに感じられるものではなく、百合界隈における一部の男性にも当てはまってしまう気がしなくもありません。
そういえば、このサブタイトルの「美しき天女たち」って、男性による性消費的で気色悪いなーと密かに思ってたんですけど、結局サブタイトルにするほど作中での強いキーワードになってませんでしたし、本当に気色悪いだけで終わってしまいましたねえ。