【連載企画】ジム・ジャームッシュ調とは何か(7・最終回)

(承前)

さて、ジャームッシュ論を「とりあえず」締めくくるにあたって、私は、ジャームッシュ自身がエピグラフとしてそうしたように、他人の言葉を無作為に並べて、オープンエンディングのような形で〆たい。

ーーーーー
『港を出る小舟』は目的もなく始まり、結論もなく終わり、俳優たちは出来事の偶然性に飲み込まれる。繰り返しこの映画を見ると、人間的経験の破片としてのその感動的な簡潔性がますます強調されて見えてくる。この映画は、自生性の問題が提示されたがその解決方法がまだ見つかっていなかったその瞬間の残余として、そして映画がそれ自身の意味からも自由であり、映画自身を越えた意味に飲み込まれる脅威からもまだ自由であった瞬間の残余として今も残されている。ここにこの映画の美しさの秘密があるのだ。
ダイ・ヴォーン「光あれーーリュミエール映画と自生性」(『アンチ・スペクタクル』所収)
ーーーーー

私にはこの引用がそのままジャームッシュ論であっても構わないような気がする。

もうひとつ、ポストヒストリカルな世界の時間のありようについて簡潔に述べたい。近代的な物語=歴史がある目的=終わりへと向かって進んでいく(これは、クリストファー・ノーラン『メメント』のような錯時法を用いた映画においてさえそうである)のに対して、ジャームッシュ的世界においては、「出来事」はすでに――しかし、いつ?――起こってしまっている。映画の中で描かれるのは決まってその「後」なのだ。そこでは時間は伸びきったゴムひものように弛緩し、あらゆる目的は宙吊りにされる。するとどうなるか。

かつて浅田彰は、中上健次をめぐる講演の中で、その著書『地の果て 至上の時』からその後の物語群へと至る展開をして、「近代の物語=歴史が不可能になった後で、もはや擬似神話的な定型的物語の反復しかない、ポストヒストリカルな世界」と呼んでみせた。秋幸の父、浜村龍造の自死というカタストロフとともに「歴史の終わり」が到来し、その後に待ち受けるのは、直線的で目的論的な時間がどこまでも宙吊りにされた、無為の時間としてのユートピア(ディストピア?)である。そう要約して間違いなければ、ジャームッシュ的世界においてもこれと似た事態が起きているように思われる。私の印象に即して言えば、多くの映画が出来事そのものを描き、一部の映画――まっさきに想起されるのは黒沢清の『ダゲレオタイプの女』――が出来事の「予感」を描いているとしたら、ジャームッシュは出来事の「後」を描いている、ということになるだろうか。

無為の時間としてのユートピア(ディストピア?)、あるいは「絶えざる回帰と反復の経験」としてのジャームッシュ映画――。そこに身を浸し、なおかつそこで「目的なき生の充実」(江川隆男)を図れる者だけが、彼の映画に「乗る」ことができるのではないだろうか。

ここまでで力尽きた。拙い文章をご覧いただきありがとうございました。明日からはまた違う連載を始めたいと思いますのでお楽しみに。

(連載企画・了)

いいなと思ったら応援しよう!