エピグラフについて

著作の冒頭に付されるエピグラフに興味がある。丹生谷貴志氏などは必ずと言っていいほどエピグラフをつけるし(それもカフカと『くまのプーさん』を横並びになどして!)、その数も3個まで行くと「ちょっとつけすぎ」ということで記憶に残るだろう(柄谷行人『マルクスその可能性の中心』や佐々木敦『それを小説と呼ぶ』などがそうであったか)。エピグラフとは要するになんでもアリな場であって、本文とうっすら関係しているというテイさえ繕えれば、別に適当な自分の好きなフレーズを置いてもよいのである、たぶん。青木淳悟のデビュー作『四十日と四十夜のメルヘン』のエピグラフは、一見そういうのにあまり選ばれにくそうな野口悠紀雄『「超」整理法』から取られていて小気味よかったが、そのようにもっとエピグラフの幅が拡がってもよいのではないか。「〇〇 うちのじーちゃん」とかいうのも楽しいし、私だったらJUDY AND MARY「Over Drive」の「本当もウソも興味がないのヨ」というのをデビュー作のエピグラフに用いたいと日々画策している。先程の投稿に書いたニーチェのアフォリズムや、その前の投稿に書いたスピノザの一行のように、好きなフレーズのストックはいくら作っておいても損はないだろう。丹生谷氏なども、きっとそんな気持ちで日々読書しているのではないかと勝手に夢想する。『ラ・ロシュフーコー箴言集』だとか、パスカルの『パンセ』だとか、家に置いておいてたまにパラパラめくる類の本が好きだ。そこで出会ったお気に入りの一行と、別の著作のお気に入りの一行を、自分というスクラップブックの上で並置させることにこの上ない喜びを感じる。一冊の本を通読したり、隅から隅まで味わうことにはほとんど興味がない。だからゴダールが言った理想の映画の見方、すなわち15分見て劇場を「はしご」し、次また15分見るというのに心の底から共感できる。全体性より断片性、これだけは譲れない自分の芯である。

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