『マルホランド・ドライブ』には「いかなる象徴も」ないのか
デヴィッド・リンチ監督の代表作『マルホランド・ドライブ』に対する哲学者・江川隆男の評言が面白い。その評言から読みとるに、この作品は、難解と言っていいだろう江川哲学のある種の形象化(イマージュ)の趣さえ持つと言っていいかもしれない。その評言は『存在と差異』と『死の哲学』(のちに『残酷と無能力』に増補改題)の中に見られるが、今回は後者のほうを参照してみよう。かなり長くなるが引用する。
「ロパクの存在論的身分とは何であろうか。それは無際限表現の一つではないのか。デイヴィッド・リンチの『マルホランド・ドライブ』(二〇〇一年)は衝撃的な映画である。これは一つの離接的綜合を描いた作品であり、表面の言語のなかでのアクチュアルな決定(オーディション会場でのアダムの声による主役=カミーラの決定)と眼差しによって暗示された決定(アダムの視線による脇役=ダイアンの決定)がいかに〈身体-深層〉の次元での潜在的な変化・変身を、つまり或るダイアンを引き起こすのかが、いかなる象徴もなしに描かれた作品である。この二つの出来事(=決定/決意)、あるいは二つの感情イマージュがこの映画の前半部の終わりを示している。夢には象徴があふれていると考えられるが、これはあくまでもオリジナルとしての現実を前提とした限りでの話である。そうではなく、問題は、まどろみや安眠のなかでの可能的な夢ではなく、むしろ不眠者の夢、悪夢の必然性であり、現実の寸断された複写ー夢でも、他者の模倣ー夢でもなく、むしろ擬態の身体が見る眠りのない夢である。〈模倣なき擬態〉がここには存在するのである。何故なら、そこでは、もはや〈オリジナル/コピー〉(あるいは〈現実/夢〉、あるいは〈現実世界/可能世界〉)のストーリー関係ではなく、ただテープ(=記憶)としての世界それ自体の潜在的変化を引き起こすような諸要素と、それらが織りなす分身のドラマ化だけが問題だからであるーー「人の態度は、或る程度その人間の人生を左右する。そう思わないか」。
この映画の前半部はたしかに一つの死体(ダイアン)が見ている夢や妄想ーーそこでは、このダイアンの分身たるベティが主役となるーーであり、後半はそうした夢や妄想を見るに至った現実の身体をもったダイアンの話だと考えられるだろう。しかし、そんな話なら星の数ほどあるし、それはこの映画の本質に鏡と模徴をもち込むことになってしまう。われわれが問題提起すべきことは、現実/夢、現実世界/可能世界といったような共可能的な二元論のもとでの話しではなく、いかにして表面でのアクチュアルな決定が潜在的なものの残酷な変形をもたらすのか、どのようにして現働的なものと潜在的なものとの間に非共可能性が産出されるのかということである。したがって、ここには無際限表現のもとでの表面と深層との混合、あるいは悪循環が見事に実現されているのだが、そのためには身体そのものを口パクの擬態にすること、あるいは身体によって口パクを模倣から授態へと変質させることが必要だったのである。「ここにオーケストラはいません。(……)これは全部テープです」。クラブ・シレンシオで司会者の男が発する言葉は、擬態としての〈口パク〉の肯定であり、口パクの身分確認である。オリジナルーコピーの共軛関係から排除されたもの、オリジナルから二重に遠いもの、コピーのコピー、いわゆるシュミラークルといったものの諸相が具体的に〈口パク〉として肯定される場所、しかしそれによって自分たちの身元が明らかにされる残酷な場所、それがクラブ・シレンシオである。その貴賓席の青い髪の女が呟く「お静かに」は、あらゆる擬態、〈口パク〉が成立する、反アナロジーの世界、存在の一義的な平面に沈黙をもたらすために発せられた言葉である。〈口パク〉の肯定的な存在論的身分はここに存している。例えば、オーケストラは一般的には演奏の主体である。それゆえオーケストラとこれによって演奏されるものとの間には、オリジナルとコピーとの間に成り立つ関係と類似した関係が成立することになる。さらにこの演奏を録音すれば、そこには演奏 (=コピー)をコピーした、コピーのコピーというオリジナル(=本物)からもっとも遠く、存在の度合のより低い、より多く不完全なものの次元が成立することになる。しかし、この不完全性は、むしろ一つの実在的な無能力の別名であり、その最大の能力は潜在的なものの変形を可能にする存在の仕方を示しているのである。〔…〕この残酷の映画においては、〈ベティであれ、ダイアンであれ〉、〈リタであれ、カミーラであれ〉、彼女たちーー生まれるべき「娘たち」ーーを通して、「俳優は身体を転移するという働きをもっている」ということが見事に表現されている」
江川の文章に慣れていない読者にとっては、読み通すのが大変だっただろうか。私には全くそのようなことはないのだが。この中で一番シビれたところは、太字にした中の「いかなる象徴もなしに」という十文字である。どれだけ多くの論者がこの映画を象徴ずくめで解釈してきたかは、ネットで少し調べるだけでも明らかである。そんな中この映画をいかなる象徴でもないと断言したところに痛快さを感じる。この表現の中に「反実現」「離接的総合」「シミュラークル」など、江川哲学の鍵となる概念がふんだんに盛り込まれており、『マルホランド』を見返すことが江川哲学の理解に大きくつながるとさえ、前回見返したときには思った。読み手のレベルに応じては負荷を感じる文章なのかもしれないが、そう感じない私にとっては逐語的な註解は不要であるように感じられる。江川節をそのままに味わっていただきたい。
日本の映画批評家の中には『マルホランド』を評価しなかった者も多い。もちろんそれはそれで、世界映画批評の潮流とはまた違った見解を示した卓見であろう。だが結果的に作品を評価する/しないとは関係なく、ここまでひとつの作品に対して充実した批評を与えられたならば、それはもはや同作を一顧だにしなかった人よりも遥か上を行っていると言わざるを得ない。私自身10代のときに見た『マルホランド』の(あまり良いとは言えなかった)印象が、この文章でまるっきり塗り替えられた。正直これを抜きにして映画を見ることはもはやできない。それくらいの密度を誇る文章であるため、映画を観たあとにぜひ精読していただけたら幸いである。