スピノザ超入門〜心構え編〜

スピノザの本を読むとき、いわゆる「イメージなき思考」が要請されてくる。簡単に言えば、頭を空っぽにして読め、ということである。よりイメージ喚起的に言えば、アイドルの人が「皆さんのことが大好きです」という時の「皆さん」が何を指しているか、である。当然色んな人が頭をよぎるのだろうが、一瞬で何百人もの顔を思い浮かべるのは物理的に不可能なので、実質的に言うと「無」に近いような「皆さん」である。この感覚で『エチカ』に出てくる「神」だとか「自由」だとか「喜び」は読まれなくてはいけない。「りんご」と言えば、赤くて丸い「あの“あれ”」のことを言うが、『エチカ』に対して「あの“あれ”」をやっては決してならないのである。例えば「「属性」って「猫耳属性」とかのあれか」などというのが一番やってはいけない理解の仕方である(あまりに例が卑近過ぎたか)。そうではなく「属性」とは、「知性が実体について、その本質を構成しているもののように認知するところのもの」という定義以上でも以下でもないのである。このように厳密に読んでいかなければならない。

次に、なぜそうしなくてはならないかを説明する。「あの“あれ”」が通用してしまうという場合、そこには必ずなんらかのローカリティー(局所性)がある。経験的に見たことのあるりんご(赤いりんごしか見たことなければ緑のりんごは知らない)、親や先祖から伝わった神……ローカリティーを入れると、必ず「それ以外」が発生してしまう。例えば、神で考えてみよう。スピノザの神は信仰の対象ではないので「様」など必要ないのだがあえて神様と呼べば、その神様はどんな人? …と大抵まずは人格神をイメージしてしまう(この時点でアウト。なぜならそのとき動物や石ころは排除され、それらにとっての神ではなくなるから。スピノザは万物にとって等しい神概念を1から作ろうとしているのだ)。まあ仮に人格神をイメージしたとして、その神の肌の色は? 性別は? と詰めていこう。肌の色が白ければ、それは黒人にとっての神ではない。男性なら、それは女性にとっての神ではない。ローカリティーと「それ以外」の発生とはこういうことだ。ローカリティーによって「それ以外」がひとたび発生してしまえば、必ずそれは争いの温床となる。それは歴史が縷々証明してきた事柄ではないか。

ではそんな争いを起こさないためにスピノザはどう考えたかというと、読む人読む人がまっさらな状態から、概念を1から(0から?)その場で創り上げるように仕向けたのである。そうすることでしかローカリティーを排除することができないのだ。冒頭に書いた、アイドルにとっての「皆さん」的なまっさらさで、頭を空っぽにしてスピノザの概念(とりわけ名詞ということになるが)を読んでいくことが要請される。スピノチストの江川隆男は、『超人の倫理』のあとがきで次のように書く。

「こうしたイメージなき思考を徹底していった結果、私は、何と小説が読めなくなってしまいました。〔…〕というのも、読んでいて、それ以前の場面や人物といった表象像を維持できなくなってしまい、絶えず前のページにもどらなくてはならないからです。そういった意味で、読むことができなくなったのです」

その後に「しかし、私は、それでいいと思っています」とポジティブに続くくだりも見どころだがそこは各自確かめられたい。私としてはそんな江川氏に森敦『意味の変容』という奇っ怪な小説や、吉岡実の詩群を勧めたくなる気持ちもあるが、ともかくスピノザ超入門として、イメージなき思考(あの“あれ”禁止!)を受け止めてもらえれば幸いである。

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