共通感覚をめぐるあれこれ
もう何十年も前のことだけど、いいともを見ていたら、テレフォンに書道家の武田双雲さんが出ていて、こんなことを言ってたのが今でも印象に残っている。
(お客さんに向かって)「食べ物を本当に味わって食べたいと思ったら、皆さん、目をつむって食べてください」。
シェフとかでもないのに料理のことを語ってるから、というような感じでひょっとしたら引っかかっていたのかもしれないけど、今からその発言を考え直すと、やはり芸術(感性)の道を極めている人だから言えることだな、と感心する。
武田さんは「目をつむると美味しく食べられる」と言った。「目をつむる(視覚をなくす)と美味しくなる(味覚が際立つ)」ということだ。これはまず、視覚と味覚は違うものだ、というごくごく当たり前なことを再確認させてくれる。そして、武田さんの言う理路が正しいのだとすると、こう言ったりしてもいいのかもしれない。「耳もふさいで食べた方が美味しく食べられる」と(ただし触覚と嗅覚は味覚に密接に結びついてるので、ふさいだ方がいいとは言えないが)。つまり武田さんはこう教えている。普段われわれがものを食べたり、それだけじゃなくてあらゆる活動をしている時には、諸感官(感覚器官のこと)を相互に協働させながら生きている、と。そしてしかし、その中のどれかひとつを極めようと思った時は、それら諸感官の働きをバラして、単独で働かせなければいけない、と。
「五感」と言うよね。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚(第六感とか言う人もいて、それはそれでいいけど)。これらをバラすことが課題であるというのは、いまいちわかりづらければ、事例を自分で考えてみるのがいい。凄腕ピアニストは鍵盤など見ているか?(目をつむって弾く人も多いよね。目の見えない人も多い)。ジャクソン・ポロックの「アクション・ペインティング」は何をやってるか?(絵は普通視覚の領分だと誰もが思っている。ということは、絵を描いているとき「描く手」は目に従属しているのではないか? それなら、手を目から解放させて描いてみたらどうなるか? という問いを立てること…)。このほかにも色んな例を考えてね(ヒント的に言うと、やっぱり人間は視覚優位の生き物だから、視覚をふさぐところで立ち上がってくる問いというのは色々あるように思えるよ)。
逆に、普段の生活において諸感官がいかに協働しているか、ということも少し考えておこう。そういうのを専門用語で「共通感覚」というんだ。あるいは「共感覚」でもいいんだけど、ひょっとして共感覚というのは聞いたことがあるかしら。色を見ると音が聞こえたりとか、まあ一種のオーラ的な特殊能力(?)として、こういう感覚を持っている人も実際いる。そうでなくても普通に、例えば赤を見て「暖かい色だ」とか思うのも、視覚と触覚が協働(媒介)していることの証左だと言える。また、共通感覚というのは英語でコモン・センスと言う。これは「常識」とも訳す言葉なんだ。もちろんこうしたことのすべてが悪いとかいうことではない。日常をつつがなく送るためには、こういう共通感覚=常識に頼らなければいけないのも事実だ。だけど武田さんが言うように、味の美味しさ、あるいは光景の綺麗さ、音の美しさ…を味わって極めたい時も当然あるよね。そういう時にはこの共通感覚を裏切らなければいけない。
話はまだまだ終わらない。さっきは諸感官という言い方をあえてして、それは5つ(+α?)だと言った。だけど、今度はそれらをまとめて「感性」と読んでみよう。すると、感性はひとつの能力だよね。つまりほかにも能力はあるんじゃないかな? と考えられる。そしてそれらの中身はこれから書くけど、先取りしておくと、それら諸能力の間にもやっぱり協働関係があるんだよ。そして、そこもやっぱりバラさなければいけない! というのが、次に考えるべき問いなんだ。
これから諸能力について、簡単な特徴とともに書くけど、カントとかを引き合いに出して詳しく語ることがこの文章の眼目ではないし、その能力もないから、まあだいたいこんなものか、と思っておいてね(そしてここに挙げる以外の能力があるかもしれないということも言っておく)。
まず感性はいいね。さっきの諸感官を束ねた呼び方ということで。次に悟性というのもある。これは概念をつくる(持つ)能力だ。われわれはペットボトルという概念をちゃんと持っているから、(物理的には)初めて見たペットボトル(例えば今自販機で買ったばかりのもの)をちゃんと開けて飲むことができる。だいたいこんな感じ。次に理性。意志決定を司る能力って感じ。次に構想力。想像力とも訳される、イマジネーションの能力だね。そんなに難しくはないかな。ほかに記憶力なんかもあるよね。
で、繰り返すけどここで大事なのは数え上げる作業じゃなくて、それらが協働してることをちゃんと理解し、場合によっては批判することだった。記憶なんていうのは事例として考えやすいかもしれない。ある事柄を体験して(例えば見て)、あとから思い出すというのは普通のことだ。でもそれって、記憶力を媒介としてしか見てないんじゃないか? と言える。感性(視覚)と記憶をバラし、絶対に記憶されない形で、しかし見せることはできるか? こう問うと、ある種のめちゃめちゃ眠くなる映画(タルコフスキーやソクーロフなど)なんかが思いつく。それらにはたぶん、単につまらなくて寝てるだけの映画とは区別されるべき「絶対的(肯定的)眠り」のような作用があるのではないかと思うよ。
以上のようなことを、少し言い方を変えて言ってみるね。普段われわれが見ているものは、見ることも、聴くことも、思い出すこともetc…できるような形でしか見ていない。言い換えると、そこに「見ることしかできないもの」あるいは「見るべきもの」を見ていない。それらをことごとく取り逃す形で、形骸化したカスだけを見ている。そのことに対する深い反省からわれわれの日常や芸術を見直してみること。こうしたことは、冒頭の武田さんの発言に引き戻せば、なにも哲学的な問いにとどまったものではないことは明らかだろう。ここからたくさんの帰結を引き出せるが、今はその仕事を一旦読者の皆さまに委ねたい。