エッセイ「第二の目」理論

鬱状態だと、体がまったく動かなくなる。そうすると頭の中でぐるぐる考えてしまう。しかしそのぐるぐるは何千回も通った道だし、嫌な考えなので、何の生産性もなく、実質無である。この無が無じゃなくて何か有ならば、それはもう立派なことじゃないか。何かないか、何かないか…。

そう思って、試しに母親に「これ読んでみてくれる?」と本を貸した。父親に「これよかったら見てみてくれる?」とDVDを貸した。すると母も父も、嫌々どころか大いに楽しんでそれらを読んで/見てくれた。そして素直な感想をくれた。率直な物言いをすると、文化的教養のみに関しては子の方が父母よりもあるので、いくらでも書棚の本は貸せるし、DVDも100本以上持っている。当分ネタが尽きることはないだろう。

よくよく考えるとこのとき私の身には何の変化も起きていない。相変わらずうーうー言いながら寝返りを打っているのみだ。だがその時間で母が本を読み、父が映画を見て、それぞれに楽しめば、これは無ではないだろう。立派な有が生じているのではないだろうか。

こうして私は次第に両親を「使い」だした。こき使おうってわけではない。お勧めする本や映画は、最初は私自身が太鼓判を押したもののみとしていたが、次第に自分が未見のもの(見たいと思っていたけどなかなか手が出せていなかったものなど)も渡すようになっていった。するとあらすじと感想を教えてくれる。私はネタバレ全然OKの人間なので、どんどん教えてもらって、ちょっと見た気になる。年に千冊本を借りる男なので、母が読んだ本の書評がどこに書かれていて、父が見た映画の評がどの本に載っているかくらいは調べずとも空で言える。今度はそれを借りさせて、また読ませる。私自身の目はひとつも動いていないが、両親が第二の目となって代わりに読み、見てくれる。これを依存だと言って侮蔑するならするがよい。私はこれが、鬱のときにできる最大最高のことだと思っている。

母は今夏目漱石にどハマりし、奥泉光の解説本や、少し難しめの小森陽一の話者論などにも興味を示しはじめている。父は半年で仕事をしながら60本もの映画を見た。ヴェンダース、小津安二郎、ジャ・ジャンクーの作品をそれぞれ5〜10本ほど見て、次は黒澤明を集中的に見ている。これでも私が寝ていることが無だという人があるだろうか。社会のレールからは大いに外れているのはわかっている。でもそんなことどうでもいい。できることを最大限にやるだけだ! もちろん、「第二の目」とは言いつつも、人に物を頼むときは低姿勢に、謙虚に頼むのがコツだ。

「実るほど頭を垂れる稲穂かな」

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