江川隆男名言ベスト3

自分が大きな影響を受けている哲学者の江川隆男が発した(書いた)言葉の中で、これはというものを独断と偏見でベストスリーにしてみました。

①「生きること、それは偏ることである」(『存在と差異』より)

千葉雅也との対談でも同様の発言をしている。これは、江川がよく言う「身体を入れて思考する」ということに関わる。私ははじめこの意味するところがよくわからなかったが、江川は最近流行のマルクス論などを読んでみてもそこにさっぱり「身体が入っていない」ことにすぐ気づくらしい。敢えて、江川が絶対に出さないような思いきり卑近な例でこれを説明してみると、グループアイドルというものが近年流行している。彼女たちの中には必ず「センター」という存在がいる。ところがもしこの「センター」決めあるいは「選抜制」を不平等なものとして排してみようとしたら、どうなるか。たとえ全メンバーを横一列に並べようとも、そこには「真ん中/端」という差ができてしまうし、縦一列に並べても「前/後ろ」ということになってしまう。これが、人間が空間上、時間上に「身体を持って」存在しているということの証左であり、これは差別でもなんでもなくまさしく生きることとイコールの「偏り」なのである。偏りを是正するなんてことはあってはならず、偏りを偏りとして肯定すること、これが重要である。

②「テクストを迎えに行く」(『HAPAX』13号より)

これは以前の記事「佐藤惇と江川隆男」の中で一節まるまる引いておいたが、今一度引いておこう。

「私にとっての大学院の演習の意味は、例えば、プラトンやアリストテレス、デカルトやスピノザ、カントやベルクソンを受動的に読むのではなく、最初からテクストを自分から迎えに行くという意識、つまり肯定的なものをテクストから引っ張り出しに行くという価値の感覚と不可分でしたね。そうです。待ち構えているのではなく、まさにテクストという対象性のなかに自らの遊技場を作るという感じです」

江川がカント論を書くのは、カントをわかりやすく解説するためではなく、そこにまだ誰も発見していない問題を発見するためであり、「存在の一義性」を重視するのは、あまたあるドゥルーズ論の中で目立とうとしたいからではなく、ドゥルーズが作ったスコトゥス−スピノザ−ニーチェの系譜でそれ問題を完結させないでおくためである。ことほどさように、未知の問題提起に全力を注ぐ江川の本は、なんといっても読んでいてワクワクする。類書がない。そんな姿勢を大学院生の時から持っていたことがわかる言明だ。

③「思想に毒を」(山森裕毅『ジル・ドゥルーズの哲学』あとがきより)

これは直接聞いた発言ではなく山森氏の著作で知った言葉だが、②の問題提起的な姿勢、他の人と同じではいたくないという姿勢、さらには岡本太郎的な「挑む」姿勢を鑑みれば、山森氏にこう言ったことも充分頷ける。

その他、細かい旨味としては、江川氏が講義でやたらよく「キリン」の事例を挙げるので、最近ではキリン、キターー!となっているが、これは講義に11年も出ていなければそうそう気づくものではないだろう。今江川氏は初めての新書を準備中だというが、世にあまたあるわかりやすいだけの新書とどう違うか、今から楽しみである。

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