【思いつき】顔と性格は並行論的関係を成す

今日ご紹介するのは、私のいくつかある理説(と呼べるほどのものではないが)の中でもあまり評判がよくないもののひとつである。でもじっくり聞いてもらえればきっと理解していただけると思う。

それは、最も端的に言えば「顔=性格」ということであり、もう少し説明すれば「顔と性格は、同じひとつのものの2種類の呼び名である」という表現となり、更に意味と価値を持った言い方で言えば「顔と性格は並行論的関係を成す」ということになる。

これはよく言語哲学で用いられる例なのだが、「金星」のことを「明けの明星」と呼ぶこともあれば「宵の明星」と呼ぶこともある。同じひとつのものに対して2種類の呼び名が与えられているという事態だ。「顔」と「性格」もこれと同様で、それらの指すものは同一であるということが言いたい。

この議論によって何を排したいかというと、「あの人、顔はいいけど性格がさ…」とか、「性格はいいけど顔がな…」といったタイプの言表である。このように顔と性格を分離したものとして考えることは、並行論的にはあり得ない。

ここまではずっと「顔」と「性格」という言い方を貫いてきたが、別に人間身体の中で顔を特権化したいという意図からではない。そうではなく、スピノザ『エチカ』第二部定理七「観念の秩序と連関は、事物の秩序と連関と同一である」からごく自然に導かれてくる考えとして、つまり身体と精神の並行論からの帰結として以上の言い方が言えるのではないかと言いたいだけだ。

ルッキズムといった単語で人が何を語ろうとしているか私はほとんど知らないが、人の顔はその人の性格を過不足なく十全に表現している、と、事柄はそれだけの話ではないか、それ以上何を議論する事があるのか、私にはよくわからない。

わからないが、推測するとおそらく、問題が起きるのは、顔の「よしあし」と言ったときにその「よし」と「あし」を「善し/悪し」という道徳的基準で考えるからだろう。日本語だとよく伝わらないかもしれないが、自分の外部に超越的価値として設定されたよさを「善」(フランス語でbien、ドイツ語でgut)、それに対する超越的な(「いけないんだからいけません」的な)わるさを「悪」(フランスでmal、ドイツ語でböse)と言う。対して、自己に内在した倫理的規範としてのよさを日本語ではひらがなで「よい」(フランス語でbon、ドイツ語では同じくgut)、それに対するわるさを「わるい」(フランス語でmauvais、ドイツ語でschlecht)と言う。

これはニーチェの『道徳の系譜学』に由来する考えなので、原語を入れたことでわかりやすくしようと図ったがかえってわかりづらくなってしまったかもしれない。しかし要するに、事柄を倫理的−内在的に考えれば「顔がよい/わるい」という言い方は当たり前のようになされて然るべきものであり、反対に事柄を道徳的−超越的に考えたとき、「顔が善い/悪い」という言い方が問題含みなものとなるのだ。すべては道徳か倫理かの問題であると私は思う。そこに不必要なものを持ち込んで議論を複雑化させても仕方ないのではないか。

以上のようなことを10年くらい前から考えていたが、飲みの場などでだと断片的にしか口にすることができず、反感を買うこともあった。なので今回ここにまとめてみた次第である。議論が複雑に思われた方もいるかもしれないが、言いたいことはタイトルにある一行に集約される、非常にシンプルなことであった。

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