「晩年論」への助走
あなたは渋谷に行こうとしているが、電車が遅延していて、10分遅刻しそうだ、という状況があるとする。これを少し硬い言葉で言い換えてみれば、「渋谷という目的地に対して10分の遅れをとっている」という風にも言える。
こういう例から入ったのは、まずはイメージ喚起をしてもらいたかったからだ。このような考え方には、別に違和感を抱くようなところは特にないだろうと思う。私が言いたいのは、まずは、こういった考え方が、作家や批評家のうちにも支配的なものとなっているということ、そして最終的には、そうした考えの道筋に対する批判である。
例えば映画をめぐる文章でいうと、蓮實重彦『ゴダール革命』が描く「遅刻者ゴダール」の肖像。蓮實はゴダールを、先行世代の監督であるムルナウにも溝口健二やバルネットにも「間に合わなかった」不幸な男として描く(当然、ゴダール自身の口振り書き振りからそうした態度が伺えるという意味だが)。そしてそのゴダールらが創り上げた60年代以降のフランス映画の潮流「ヌーヴェル・ヴァーグ」にも間に合わなかったことを「私自身のせいである」としながら、そんな自分に対して「なぜ私は神に見捨てられ産まれてきたのか」とまで嘆いてみせる廣瀬純の『シネマの大義』に至って、この遅刻意識は極点に達する。
小説で言えば、その名も『遅れてきた青年』をものし、そのおよそ50年後には、これから取り上げることになるエドワード・サイードの『晩年のスタイル』をもじった小説、その名もずばり『晩年様式集』を書くことになる大江健三郎がまず挙げられる。ここで「晩年」という言葉の意味するところを押さえておこう。「晩年様式」は英語で「レイト・スタイル」であるが、このレイトには言うまでもなく「遅延」という意味がある。つまり「晩年」は、死という目的地に対して遅れをとっている(死に遅れている)状態のことである。これでも分かりづらければ、この思考パターンが先程の渋谷に対する遅れの例とと同型であることを確認してほしい。
そして再び小説の世界に目を転じると、その大江を含む先行世代に遅れてきたという自覚を自作の中に書き込んで止まない奥泉光『浪漫的な行軍の記録』がある。ちなみに同作の文庫解説を務める批評家の前田塁は、その解説文のタイトルを「「遅延する作家」としての奥泉光」としている。
音楽界でも同じような現象が見られる。田中純は論考「★の徴しのもとにーーデヴィッド・ボウイの「晩年様式」」で、こちらもサイードを引きながら、憧れロックスターへの遅れを自覚するボウイ像を描出しているのだ。
私は、今挙げたいくつもの文章を、すべて半年以内のうちに「たまたま」読んだ。たまたまというのは、この切り口で何か書いてやろうと思って文献渉猟した訳ではない、というほどの意味であるが、それにしても奇妙な偶然では済ませられない何かがここにはあるのではないか。どうやらわれわれの心性は「遅れた/間に合わなかった/出逢いそびれた」というような感覚に芯から浸されているようだ。
一般的な事例に置き換えても、自分は戦争を体験してなかった、とか、誰々の死に居合わせられなかった、といった感慨や罪責感を誰しも一度くらいは抱いたことがあるだろう。
ここまでで、晩年型思考の蔓延については一応示せたと思う。
次に、なぜこうした思考パターンに陥ってしまうかということを、言語の限界という切り口から述べたい。そして最終的には、この思考様式からの脱却の道を示したい。
(続く…?)