「遥かなものの手ざわり」
笹井宏之『ひとさらい』
(※わたしが読んだのは書肆侃侃房刊行の版ではなく、SS-PROJECTの「歌葉」によって刊行された版でした)
ほわんとしたかわいらしさのある、でも何が描かれているのかわからないような、わかるような、不思議なイラストのような短歌だと思った。
ひろびろとした、厚手のしっかりした白い紙のまんなかを贅沢に使って、縦長に奥行きのあるイラストが広がっている。
描かれている世界は、身近な、親しいもののようで、金星くらいに近くて遠い。笑顔なのに、ちょっと怖かったりする。
これしかない、という一本に選ばれた、抑制のきいた線が、まるみのある輪郭となっている。
使われている色は、一つか二つ。だが、よく見ると、同じに見えた色の中に、数えられない微妙なグラデーションがある。
絵の周囲には、ゆったりと余白がある。
ゆっくりと上がっていってかまいません くれない色をして待っています
朝焼けの歌だと思った(本当のところは知らない)。
日の出の時間は綺麗で短い。〈ゆっくりと上がって〉いく間に、全ての色が刻々と変わる。焼きつけた〈くれない色〉が、瞳の中にずっと残っている。
三十一文字は、決して長くはないけれど、案外短くもない。もっと描写を詰めこむこともできるはずなのに、それをしないで、丁寧な口語で呼びかける。そのゆとりが、余白になっている。
このケーキ、ベルリンの壁入ってる?(うんスポンジにすこし)にし?(うん)
ケーキにベルリンの壁が入っているという、上の句の「!?」を、当事者たちは平然と会話する。「!?」は宙ぶらりんになり、「うん」「すぽんじ」「すこし」「にし」「うん」のなめらかなリズムに流されてしまう。西の壁と東の壁、味は違うのかな。
……と、何とか説明を試みましたが、以下15首は、歌から「見えたもの」の、説明ではなく描写を試みました。
配列は掲載順です。
すまいらげん 決して滋養強壮に効くくすりではない smile again
すまいらげん、っていうと、まるで薬の名前みたいでしょ。彼女は笑って言った。つめたい笑い方だった。Smile again。胸のなかで呟く。笑うと元気になるらしいから、彼女に笑ってほしかった。でもたぶん、今の笑い方ではだめな気がした。
ウエディングケーキのうえでつつがなく蝿が挙式をすませて帰る
一部始終を見ていたぼくは、そのことを秘密にしておこうと決めた。やがてウエディングケーキは入刀されて、参列者にひとかけらずつ配られた。これで、人間も蝿も、めでたしめでたし。
焼き鮭な人とグラジオラスな人どっちか選べ今すぐ選べ
そう迫ると、彼女はわっと泣き出した。「酷いわ、そんなの。選べっこない。だって、比べられるものじゃないもの」「人なのに?」「人だからよ」
思い出に降ってる雨を晴らそうとまずは蛇口を締めてまわった
一つひとつ、蛇口を締めてまわっている男がいた。ずいぶんと疲れた様子だった。声をかけると、悲しそうな眼をこちらに向けた。自分と同じ顔していた。
それは世界中のデッキチェアがたたまれてしまうほどのあかるさでした
あんまりに眩しいから、外で寝転がっていられないのです。ひとびとは家の中にとじこもって、世界中の通りという通り、庭という庭、浜辺という浜辺には、だれもいなくなりました。まっしろな人工太陽は、人影ひとつない町を照らしつづけました。街路樹のまっくろな影が、木々の根元にちいさくちいさく落ちていました。
くつとばし選手がぼくにブランコのさびさびの手でさしだした愛
僕はおおいに畏まってその手を握った。ちいさな手はぽかぽかしていた。偉大なるくつとばし選手はくつしたのまま、悠然とくつに向かって歩き出し、僕は手を引かれていった。僕の腰よりも下にあるやわらかそうなうしろ頭に、ほそい髪がちいさなつむじを巻いていた。
天井と私のあいだを一本の各駅停車が往復する夜
眠れない夜、天井が見える。まぶたを閉じる。天井を見る。寝返りを打つ。また上を向く。天井を見る。まぶたを閉じる。また開ける。天井が見える。各駅停車はゆっくり走る。だから、夜は長い。
錆び付いたボタンはむかし〈緊急の時押して〉って渡されたもの
でも、緊急の時っていつかな。いつだったら押してもいいのかな。わからないで、押せないでいるうちに錆びちゃったの。きっともう動かないね。だってわたしも、もう動けないし。
(ひだりひだり 数えきれないひだりたちの君にもっとも近いひだりです)
そう言われて〈ひだり〉を見てみると、〈もっとも近いひだり〉にあるのは心臓だった。
トンネルを抜けたらわたし寺でした ひたいを拝むお坊さん、ハロー
お坊さんには聞こえないみたいだ。まわりを見まわす。横たわったままの〈わたし〉の身体を見知った顔がとりまいている。みんなが悲しそうな顔をしているから、〈わたし〉もなんとなくかなしい。目をつむったままの〈わたし〉の顔を見下ろす。白くて小さい顔だった。
一晩中ほとけになっているひとへゆっくりながしこむハーブティ
熱いハーブティは、生きている草の香りがする。乾いた木彫りのほとけのようだったひとに、ようやく潤いが戻ってきた。硬かった肌が、指で押したらへこんでまた戻るほどの弾力を取り戻す。さっきまで固まっていた関節は、まだみしみしと音を立てていた。
三番線漁船がまいりますというアナウンスをかわきりに潮騒
聞き間違いかと思った。でも、え、と思った次の瞬間にはもう、潮騒が聞こえていた。ホームに向かって打ち寄せる波は、足許まで上がってはこないものの力強い。白い泡が、黄色い線の外側に残る。右手から、ゆっくりと漁船が近づいてきた。甲板で、漁師のおじさんたちが何やら作業に勤しんでいた。
晩年のあなたに窓をとりつけて日が暮れるまで磨いていたい
まばゆくぴかぴかと光る〈あなた〉はきっと、たくさん歳をとって死ぬまで生きるでしょう。だから晩年になったら、〈あなた〉に窓をとりつけるの。そして曇り一つないように磨いて、最後の最後まで、日が暮れていくのを、〈あなた〉が地平線の下に隠れてしまうさまを、ぜんぶこの目に焼きつける。
かおをあらう 遥かなものの手ざわりが確かなものに置き換えられる
さっきまでぼんやりと頭のまわりに漂っていた今朝の夢は、冷たい水におどろいて、急速に遠ざかっていった。たぶん、空を飛ぶ夢だった。空の上はかわいていて、すずしかった。ような気がした。
うしなったことばがひざをまるくして(ことばのひざはまるいんですよ)
ことばは、いかにも身の置き場がないという風情で、部屋のすみでひざを抱えている。かれが一向に理解を示さないので、私は語気を強めようとした。しかし、ことばがひざをまるめたままだったため、何も言うことができなかった。私は胸のうちでもう一度くりかえした。(ことばのひざはまるいんですよ)