ハンターモーテル、過去の記憶
↑のTシャツは息子のもの。何でも、すぐ売り切れになってしまうTシャツらしい。なので、職場からスマホで即買いしたと言っていた。笑 現在息子は、バイオテック系の会社で、スクラブ着用の裏方の仕事をいい事に、髭面で、髪の毛を伸ばしっぱなしで、髪の毛は、元々がオイリーヘアーなので、独特な、そこはかとない 汚さがあり、どんどんキアヌ化してる。笑 キアヌ、ゲームオタクバージョンよね。これじゃぁ。
そんな、息子は、ドイツのヘッセン州フランクフルトで生まれた。今月はお誕生日がある。この前気が付いたのだが、海外で生まれたアメリカ人は、US Consular Report of Birth Abroadと言うバースサティフィケート(出生証明書)なのね。日本のパスポートを作る時に、そのコピーが必要だと領事館の人に教わった。
現金を持ち歩かない息子が、「今どきなんで現金払いなんだよ!」とめんどくさがっていたので、私は言った。「日本のパスポートが、世界一何処でも行けちゃうパスポートなのは、手に入れるまでが大変だからなんだよ!オンライン申請は出来ないし、日本語だって理解できなきゃ作れないしさ。現金払い、しかも、お釣り無し!って今どき超ーめんどくさい事言われるのにも意味があるんだろう。」って言ったら、妙に納得してたわ。笑
大学在学中に「F1グランプリ」と言う共通の趣味で盛り上がった同じ学部卒の友達も、ドイツ系アメリカ人らしい。親戚がまだドイツにいると言う事だ。羨ましい。普通の人とは、違う共通点で友達が出来る事はよくある事なのだね。彼は息子より優等生で、今年大学院を卒業して、ヒューストンの大手石油会社でマネージャーをしている。たまに、こんな出来の悪い息子に、アドバイスを求め電話をしてくるところが、私には滑稽に見えるのだが。笑
夫は、アメリカ空軍を、何とも中途半端な10年半で辞め(20年でリタイアできるのに)、国務省に入省したのだが、そもそも、私達が結婚した1991年には、アメリカは不況の為、国家公務員の雇用の凍結があり、こんなに入省するのに時間がかかった人は、国務省の長い歴史の中で、夫くらいなんじゃ?ってくらい、仕事を貰えるまで、約3年の年月がかかったのだった。
それどころか、その頃には貯金も底を突き、たぶん、あの当時、国務省に入省した人達の中では、私達が最も貧乏だったろうな~って、最近、ふと思い出たのだった。
それと同時に、シカゴ郊外から、ワシントンDCエリアへ引っ越した、あのロードトリップも思い出した。夫が兄から買った、83年、ルノーアライアンスで、よくもまあ、シカゴ郊外から、ワシントンDCまであの車で行けたなって思ったのだった。途中、ペンシルバニアで一泊したのみだった。
後から夫に言ったのだが、「お兄さん、どうしてあの車をタダでくれなかったんだろうね?800ドルくらいなら、タダでいいじゃないね?私だったら、弟がお金が無いなら、そんなのいいよってあげちゃうけど。」と言ったら、その時に、はじめて気が付いたようで、兄の心なさに文句言ってたっけ。笑 それくらい、私達にとって、人生で一番お金に困ってた大変な時期だったのだ。義兄は、近所の良いエリアに素敵な家を持っていて、奥さんも仕事を持っていた。(800ドルなんて、**クソやろ?)
アノ兄も、何処かズレた人だなってずーっと思っているけど、私の勘は当たってるみたい。私は、普段から人をよく観察してるので、滅多に、人間関係で人から迷惑を被る事はないのだけど、夫は、良いか悪いかは別として、誰にでも同じように接する、そう言う所がブラインド(盲目)な人である。
やっぱり、リタイアして、子供も大人になると、後は楽しんで死ぬだけ!と言う事を実感するのか、この様に、最近よく昔の事を思い出す。
ヴァージニアに入って、ああ!無事についた!と泊まったホテルが、タイトルにある、ハンターモーテル。ハイウェイからすぐ近くの、モーテルで、食事が美味しかったのを思い出したのだ。引越にかかる費用は国務省から出るのだが、ワシントンDCエリアにステイするための補助金も、1日いくらと決められていて、たぶんここは、その補助金で賄える料金だったのだと思う。
着いてすぐに、夫一人で、その後居住するアパートメントを探しに行って、仕事が早い夫は、早速契約をしてきて、私は大変驚いたのだった。私達は、アレキザンドリアにある、とあるアパートメントに引っ越すことになった。そこへ引っ越すまで、どんなアパートメントであるのか、私は全く知らなかったのだった。
行ってみると、今でいうTiny House?ってくらいの(笑笑)、ベッドルームと居間と、キッチンと言うコンパクトな作りで、私としては掃除するのが楽で良かった。それで、お家賃が$700なんぼ。その家賃の高さにびっくりしていた。が、バスに乗って、アレキザンドリアのオールドタウンや、キングストリートと言うメトロの駅まで行けるので私は気に入っていた。
近くには、小さいがショッピングモールもあり、買い物も便利でまずまず、満足できると思っていた。だいたい結婚して数年しかたっていないので、普通のアメリカ人がどのように暮らしてるかなんて全然知らなかった。持ち物も少なく、引越しの箱は、トラック一台もないくらいの荷物だった。
住んで1年も経たないうちに、さすがワシントンDCエリアと感じた事件があった。近所でシューティングによる殺人があって、刑事が聞き込み調査にやって来た事。おお!これがアメリカだ!と、私は、ロス疑惑の三浦和義事件を思い出したのだった。
昼間は普通に暮らせるいい所なんだが、夜はさすがに大都会の郊外。いろんな事件があるはずだ。英語もろくすっぽ話せないし、車も夫の車はマニュアルなので私は運転できないし、普段動き回ってる暮らしをずーっとしてた私に、人生で一番ヒマな時期 が訪れたのだった。
他の日本人の奥さん達は、ここぞとばかりに、コネクションづくりに精を出していたのに、私は車がないので何処へも行けず、お金もないので、旅行も出来ず、唯一、ワシントンDCの博物館へ行くことが出来たくらいだった。けどそれが、私の博物館好きに火をつけたと言ったら、そうかもなって思う。
更に、私は小学生の頃から、うちにあった百科事典の一つである、西洋美術史辞典を眺めるのが好きだったと言うのを思い出した。最近嵌ってる、山田五郎氏のオトナの教養講座を観てる時に、ハッと思い出したのだった。
あの時は、本当に眺めているだけで、なんでこんなに怖い絵ばかりを西洋人は描くんだろう?とか、なんで西洋人は裸ばかり描くのだろう?って、ワダさんの如く、不思議に思いながら、宗教画を眺めていた。笑 ただ色彩はとても綺麗だと思い、私がキラっキラが好きなのはこれがルーツじゃなかろうか?って思ったりもする。だから、私は、今は亡き、カール・ラガーフェルドの表現する世界が好きだったのかもしれない。ヨーロッパの教会やお城の建築物が大好きで心落ち着くのだ。
父が私にしてくれた数少ない良い事は、中古だか何だか知らないが、小さな借家に、本棚ぎっしりと百科事典が揃ってた事。父がいつも言っていた、「人に聞く前に自分で調べろ!」は、このインターネット時代に、とても役に立つ習慣を身につけさせてもらったと感謝している。笑
この様に、最近昔の事を、ああそうだったよな!ってイモ蔓で思い出すことが多い。それは、時間があるからなのか、死期が近付いているからなのか、はたまたコロナで死が身近になったからか。良くは解からないが、最近、昔の記憶がドンドン蘇る事が多々あるのだ。