見出し画像

疏水端の思索の旅

 哲学の道。その知的な響きに、好奇心が揺さぶられた。高校2年のとき、好きになった女の子とデートの約束を取り付けた。京都に行きたいというので、家で寝っ転がってガイドブックをながめていたときのことだ。哲学の道を散策するという僕の案は、残念なことに彼女の「嵐山がイイ!」の一言でボツとなってしまう。

 それから40数年が過ぎた今年の秋、僕は初めて哲学の道を歩く機会に恵まれた。哲学の道は、京都市左京区の永観堂付近から銀閣寺あたりまでを結ぶ約2キロメートルの歩道。その名称は、20世紀初期の哲学者である西田幾太郎やその弟子たちが思索に耽りながら歩んだことに由来する。

 蹴上駅から南禅寺を抜けて北上し、哲学の道の南側の起点にたどり着いた。小川のような疏水を右手に見ながら少し幅が広めの小径を歩んでいく。紅葉の見頃はまだ先だけれど、秋の行楽シーズンの土曜日ともなれば、きっと観光客でごった返していて思索どころではないだろうと思っていたが、予想に反しそれほどでもない。少し拍子抜け。
 でもそれなりに人通りはあるが、その割にとても静かで、ゆったりと時間が流れる感じがとても心地良い……。時折り風が吹いて枝葉が擦れる音が、木洩れ陽とともに降ってくる。緩やかに流れる景色と自分の足音のリズムが淡々と続くうち、いつのまにか僕の意識はどこかに流れていく。

 結局1年も経たないうちに彼女にフラれた。卒業してからは一度も会っていない。当時もし彼女とここに来ていたら、その後の何かが違っただろうか。あの時はただ彼女に気に入られたい一心。だから「知的なオレ、カッコいいでしょ」みたいなアピールがしたかっただけ。思索とか哲学とかとは全く程遠いはなしだ。
 もし彼女とここを歩いたとして、それはとても楽しい時間が過ごせただろう。だけどその楽しさは彼女といることで成立しているものだ。ここだからというわけでは決してない。それに何よりいま感じているこの心地よさを当時の僕が感じることは決してなかっただろう。あぁ、歳をとるってこういうことなのかな。
 それにしても彼女にフラれたショック、大きかったよなあ……。

 疏水を流れる水の速度にあわせてゆっくりとひとり歩いているうち、いつの間にかそんな物思いに耽っている自分に気がついた。
 哲学の道は見晴らしが良かったり変化に富んでいるわけではないが、木々や水などの自然や建物に囲まれていて、適度に閉ざされていることから生まれる安心感がある。そのことが知らないうちに僕の意識を内面に向かわせたのかもしれない。周りの環境は西田幾多郎が歩いたころとは違うだろうけど、僕の意識を内面に向かわせたような、そんな雰囲気はいまも昔も変わらないのではないだろうか。

 さらに歩みを進めると銀閣寺に近づくにつれて観光地らしい喧騒につつまれてきた。
 たった2キロのとても小さな旅だったけれど、40数年前の高校時代のことを思い出しただけでなく、いつの間にか物思いに耽っている自分に気づいたことで、はるか以前にこの道で思索に耽っていた先人たちと少しだけ繋がったような感じがした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?