谷崎潤一郎訳源氏物語/失ないたくないもの
私が『谷崎潤一郎訳源氏物語』を初めて読んだのは、
20年ほど前だろうか。
古書店で購入した、全10巻からなる『源氏物語』。
その面白さに、他の「すべきこと」には蓋をして、
時間を見つけては、あちこちの場所で読み耽った。
つい先日、このnote内で、どなたかが「谷崎源氏」について記事を書かれているのを読んだ。
「面白くてたまらない」、そんな内容だったと思う。
そうでしょう、そうでしょう、と共感し、相槌を打ち、
誘われるように、久しぶりに『谷崎潤一郎訳源氏物語』第一巻を読んだ。
今から30年前、昭和10年の9月に、初めて源氏物語の現代語訳という仕事に取組みだしてから、(中略)今度の新々訳は3回目の翻訳である。というと私は、いかにも源氏きちがいのように思われそうであるが……
こんな文章から始まる『新々訳源氏物語』の序文を
谷崎潤一郎は、こう結んでいる。
現代いかに版を新たにしても、
これ以上の源氏絵巻は他に求め得られないーー
そう、この書物はまさに絵巻と呼ぶに相応しく、
古ぼけてしまった今でも、「腐っても鯛」の風格がある。
私が最も心惹かれるのは、中扉の美しさだ。
「桐壺」は紫、
「帚木」は乳白色、
「空蝉」はごく薄い青、
「夕顔」は濃いオレンジ
「若紫」はやや薄いオレンジ
それぞれの中扉は和紙で、書家による揮毫が施されている。
ちょうどこの絵巻の第一巻を読んでいるとき、
毎日新聞の文化面にこんな記事が載った。
コラム「メデイアの風景」
文字リテラシー失うな
このコラムのサブタイトルは、
「文字リテラシー失うな」。
失うべきでないのは文字だけではない。
コラムのタイトルを真似れば
「紙リテラシー失うな」だろうか。
「紙」となれば、電子書籍との対比が必然となる。
私は電子書籍を否定しないし、その利便性はわりあい高く評価している。
しかし、
電子書籍が紙の本を凌駕し、そのことによって今後、もしも、
紙の本が消えていくのならば、そのことには思い切り「no!」と叫びたい。
質感、
触感、
ページをめくるワクワク感。
これらは紙の本ならではのものだし、
紙が文字と調和し、醸し出されるものもある。
新刊であれば、独特の匂いもまた。
それらの、決して失われてはならない事々を、
久しぶりに読む『潤一郎訳源氏物語』の中に見た。
最後までお読みくださり、ありがとうございます。