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#015 ヘーゲルと村上春樹に学ぶ自己理解の限界と可能性
Cover photo by Jakob Owens
短期集中連載「自己理解 - 仕事と学びのデザインにおけるインサイド・アウト」 最終回(全6回)
仕事と学びのデザインにおいて、自己理解は重要なステップである。自己を知ることで、デザインの方向性が決まる。
自身の思考や行動などを手掛かりにして探究をはじめた私たちは、その奥深さに触れるにつれ、とことん知り尽くしたいという欲求にかられることもある。自己理解を目的としたワークショップが「白熱教室」と化すように、その熱は容易に冷めない。それは、私たちにとっての、根源的な欲求のひとつなのかもしれない。
ただ、実際問題として、私たちが認識できることには限りがある。その現実を受け入れる覚悟を持つことも必要なことだ。つまり・・
自己理解は「ほどほど」でよい。
なぜか? その理由は三つある。
理由① スナップショットである
ひとつには、自己理解の対象とするものは人生のステージによって変わる可能性があるということ。
才能(資質)は、考え方や行動の傾向であり、生来身につけてきた癖のようなものだから、意識して変えようとしない限り大きく変わるものではないだろう。
これに対して、価値観は経験したことやライフステージの状況次第で問い直され、新たに置き換えられていくことも少なくない。また、モチベーション(動機づけ)の要因も、その時点での私たちの欲求がどれだけ、どのように満たされているかによって、脳への働きかけが変わってくる。
従って、それらはある時点でのスナップショットにすぎないと理解することが妥当だ。
理由② 言語による表現には限界がある
もうひとつは、言語の力には限界がある、ということだ。
私たちは、資質や価値観といった概念を言葉で表現し、理解しようとする。もちろん、もやもやとしたことを言語化しようとする試みには大きな意味がある。しかし、言葉をもって定義するということは意味を限定する営みであり、それは曖昧さを排除することでもある。
たとえば、自身の価値観を「楽観主義」と捉えてみても、それだけでは言い尽くせていない、という感覚が残る。実際の自分には、一般的に解釈される「楽観主義」に加えて、「潔さ」ともいえるような気質や、ものごとに関する直観力、もしくは洞察力のようなものがあるように思える。だが、そのすべてを言葉にすることは困難で、余白の部分も確実に存在している。
こうした余白や資質の欠片のすべてを明確に言葉で表現することは叶わないことだから、そこには限界があると腹を括る必要がある。
理由③ 私たちは想像する以上に多面的な存在である
そして、自己というのは私たちが想像する以上に多面的な存在である、ということ。
過去の投稿(#007)で紹介したイントラパーソナル・ダイバーシティ(ひとりの個人の中での多様性)の概念が示すように、私たちは多様な価値観をもっている。ひとつの価値観は、間違いなくその人となりを表しているだろうが、すべてを物語るわけではない。いくつもの価値観、多彩な資質の総体として、私たちは存在している。
よって、その全容を理解することは困難であり、「ほどほど」ぐらいの感覚で付き合うことでよしとしておきたい。
「現われ」を手がかりに「本質」を窺う
自己理解には哲学的な問いの趣きもある。ドイツの哲学者ヘーゲルは、ものごとの本質について以下のように述べている。
わたしたちはしばしば、目に映るものとは違う「本当の姿」を突き止めたいと考える。この心理の裏側には、「私たちの目に見えるものは不確かな現われに過ぎず、本質はその裏にある。」という考え方がある。しかし、一方で、本質などというものは本当は存在しないという可能性もある。
このような考察を進めて、ヘーゲルは「本質なくして現れはなし。現れなくして本質はなし。」と説く。ものごとの「本質」と私たちが認識できる「現れ(現象)」は対をなしているが、本質は現象としてそのいくばくかが出現するにとどまり、現象はその奥に本質が潜んでいることを示すのだ、と。
自己理解の文脈に置き換えてみれば、「本質」とは内なる自己のことで、「現れ(現象)」は私たちの所作として現われる行動や思考の傾向のこと。
できるだけ多くの「現れ」を手がかりとして、その奥にある「本質」を窺うこと。それは「覗き見る」に近い感覚かもしれない。それが、ヘーゲルに学ぶところの、自己理解のアプローチである。
牡蠣フライ理論と「無意識性のサンプル」の教え
ここまで書いてきて、そういえば、村上春樹も自己理解についてなんか書いてたよな、と思い出した。自ら「牡蠣フライ理論」と呼ぶその考え方において、作家はこんなことをいっている。
あなたが牡蠣フライについて書くことで、そこにはあなたと牡蠣フライとのあいだの相関関係や距離感が、自動的に表現されることになります。それはすなわち、突き詰めていけば、あなた自身について書くことでもあります。
村上春樹の面目躍如といったところだが、どうやら、ある程度の距離をとって、相関関係を眺めてみることが大事なポイントであるようだ。「自分について書くと煮詰まってしまうから」という趣旨の発言もしている。
他にもありそうだとあたりをつけて探してみると、より核心に触れるような文章があった。「自己理解とはアイデンティティーの探求である」との見立てにおいて、次のように語っている。
自分という存在のアイデンティティーは必然的に「自分」という主体の中に含まれているから、それを客観的に検証することは原則的に不可能である。
自分にできるそれに最も近い行為は自分の「無意識性のサンプル」を抽出してそれを検証すること。
そして、それこそが小説を書くひとつの意味である、とも。
「無意識性のサンプル」とは、私たちのケースでいえば、普段の生活や日常の仕事に自然と現われる行動にあたるだろう。
「ある程度の」確からしさを出発点とする
小説を書く代わりに私たちができることは、こうした行動を振り返り、意味づけすること。
今回のプロジェクトでは関係者との対話の機会が多かったが、そこで自分はどんな態度や行動をとっていただろうか? それらの態度や行動には、どんな才能(資質)が現れていたのだろうか?
限られたリソースの中で成果物が求められる状況にあったが、その時「これだけは大切にしよう」と取り組んだことはどんなことだっただろうか? それは、どのような価値観を体現していたといえるだろうか?
振り返ってみれば、高い集中力を発揮してタスクを進めることができたように感じるが、どんなことがモチベーション(動機づけ)として働いていたのだろうか? それは具体的にどんな状況にあらわれていただろうか?
それは移ろいやすく、言語化には限界があり、思った以上に多様性に富む。捉えどころがなくも感じられる。意識的になろうとした瞬間に「無意識性」の価値が失われてしまうかもしれない。
ただ、それが、私たちが成し得ることのすべてでもある。日常に現われた行動や思考を改めて認識する機会をもつ。できる限りの言語化にチャレンジする。それがどんな意味をもっているのか、と考えてみる。
そうすることよって、自身の傾向を大まかにでも掴むことができた、以前よりも才能や価値観などに対して意識が向くようになった、というような変化を感じることができれば、この時点での自己理解の目的は達成されたといってよい。
自身の内なる多様性についての「ある程度の」確からしさを出発点とすることで、これからの「働く」のデザインへと進んでいくことにしよう。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
短期集中連載「自己理解 - 仕事と学びのデザインにおけるインサイド・アウト」は今回で終了です。全6回の連載記事をマガジンにまとめましたので、こちらもご覧ください。
第三章の仕事と学びのデザインの実践編では、リフレクションやフィードバックをツールとして活用することによって、自身を振り返り、さらに自己理解を深めることに取り組みます。こちらもご期待ください。