雲に潜る。赤岳に登る【八ヶ岳連峰 赤岳〜阿弥陀岳 2024.10.5~6】
『八ヶ岳 入道雲が 支配する』
という句を小学校の授業で詠み、ありがたいことに「伊藤園 お〜いお茶」のパッケージに掲載いただいたことがある。
私にとって八ヶ岳は、夏の山を具現化したような存在だった。
自治体の宿泊施設が野辺山にあったことから、子どもの頃から八ヶ岳は憧れでもあったし、そもそも最高峰たる赤岳の荒々しい岩山の上に人が立てるなど信じられなかった。
──そうか、今年は八ヶ岳に行くか。
登山を通じて出会った友人と話ながら、ふと脳裏によぎった30の夏。小学生の自分が抱いた問いに答えてやろう。
地図を広げたその日から、夕暮れを迎える八ヶ岳連峰の麓で歌った「燃えろよ燃えろ」が頭の中で流れはじめた。
八ヶ岳連峰とは
山行計画とその動機
とはいえ、上記程度の知識しか持ち合わせていなかった私は、とりあえず主峰に登ってみることにした。一番高い山に登ってしまえば、周囲がよく見えるため、自身の八ヶ岳に対する理解度を深められると思ったためだ。
高山経験はゼロだったため、山と渓谷が掲載しているモデルコースを拝借する形で計画を立てた。
順延の記録
2024年 8月31日〜9月1日:1回目 延期(台風10号により)
2024年 9月21日〜22日:2回目 延期(荒天により)
2024年 10月5日〜6日:決行
山行の覚え書き|下山直後の手帳より
下山直後に書いた参考記録兼雑記を掲載する。あくまでも手元で細々書いたものなので、文章の体をなしていない箇所もあるが、あえてそのままにしてみた。
【1日目】美濃戸口から赤岳展望荘を目指して 予報:霧のち雨
三度目の正直だったし、もう絶対に中途半端な山行にしたくなかった。この気持ちが想いから、しがらみに囚われた呪いに変わってしまいそうだったから、早く登りたかった。
10月5日土曜日、午前7時新宿発のあずさ1号に揺られグロッキーになり、茅野で同行者と合流する。(2日間、同行者氏には大変にお世話になりました。先んじて感謝を)
朝に弱く、消化器官が幼女並みのか弱さを持つ私は、この日も朝いちの電車(のトイレ個室内で)吐瀉との葛藤があり、無事敗北した旨をバス内で告白し、相手に妙な気の遣わせ方をしながら、登山口である美濃戸口へ到着する。
ここでは諸々と支度を整え、加えてトイレが水洗+ウォシュレットだったことを称えあい、午前10時半頃に出発した。この時点で登山計画より30分程度遅れている。
北沢は素人から見るに、水量も豊富な沢で、沢を渡る機会も多く、なおかつそれを想定したような橋がしっかりと設けられているのが印象的だった。
穏やかな樹林帯を黙々と、時折おしゃべりを交わしながら進む。
途中、沢の底が赤褐色になり目を疑った。鉄分もしくは銅を多く含んでいるのだろうか。
さらに標高を上げていくと、赤や黄に染まった広葉樹が頭上を彩る。白く煙る山中に添えられた赤や黄は、心を温めるようだった。
午後1時に赤岳鉱泉に到着する。非常におしゃんてぃなロッジで、夕食にはステーキが出るのだとか。5種のカレーから1種を選ぶという無理難題を瞬時に対応した結果、ジャワカーだかマレーシアカレーだか、どちらを頼んだかを忘れてしまったのも乙なもの。どちらかのカレーをおいしくいただき、しばし微睡む。外は雨脚が一層強まり、そろそろ雨具を着なくちゃねなんて話ながら。
最悪ともいえる豪雨を回避し、次に向かうは行者小屋。ここでは「ぎょうじゃ」と読むので注意だ。私は「ぎょうしゃ」と読み、「行者ニンニクを知らないのか」と指摘されてしまった。そうか、それもそうだ。
この間の鮮明な記憶がない。とりあえず、淡々と登ったのか。
行者小屋に到着し、時間がないことに気付く。私の電話は圏外だっため同行者に山小屋へ少々遅れる旨を連絡してもらい、とうとうこの日の確信たる地蔵尾根へ取り掛かる。
核心 地蔵尾根
樹林帯を抜けるまではただの急登のようだったが、頭上を覆う木々の層が薄くなり、重く垂れ込めた空が広がる。
ここは分厚い雲の中だ。標高を感じさせないほどに。荒々しい岩肌が眼前に姿を現した。冷たい雨に打たれ、凍てつくようなハシゴと手すり、そして摩擦など一切利く気配のない階段がそこにはある。
冷静になると恐怖心を自覚してしまいそうだった。登るしかない、落ち着いて。一歩を確実に、三点支持を念頭に。足の置き場、掴むポイント、素人なりに安全なライン取りを考えて。あとは落石を起こさないように、心のBPMを一定に。
無我の境地とはこのことかもしれないな。登れ登れ。お前があれだけ、熱望した場所じゃないか。思いきり行けよ。
いち早く息を吸いたいが、同じく吐きたい。気を抜けば呼吸が喉元だけで回り、体の隅々まで渡らなくなる。足の先まで集中させて息を集め、深く吐き出す。自然と入ってくる空気を噛みしめる。心臓はとてつもない速さでビートを刻んでいるが、どうか落ち着いてくれ。
稜線が見えた。長いことしがみついていた気もするし、一瞬だったようにも感じる。
目指した場所は、荒涼という言葉を体現したような世界だと感じた。膝ほどの高さの地蔵が被っていた真っ赤な帽子だけが、この世の中の色彩のような装いで。
ここだったのか。私が望んで辿り着いた場所は。
気を抜くとまた呼吸を失敗する。息を吐き出すと、冷やした水みたいな空気が肺の底に入り込んできた。酸素が薄い気もするが、確かに私の体を満たす。街ではあれだけ酸素があるのに、これぽっちも入ってこない。
だが、ここにはある。私が吸うことを許された空気が。
同行者氏の「やりましたね」がすべてを現実に戻してくれた。
私は登ったのか、やったのか。
とにかく山小屋へ行こう。実感を噛みしめるのはそれからだ。じきに建造物がボンヤリと霧の向こうから現れた。
【2日目】赤岳〜阿弥陀岳 予報:霧のち晴れ
午前4時頃に目を覚ました。厳密にいえば、覚醒するほど眠れてはおらず、体は疲れているのに、妙な高揚感が脳を覚醒させていたのだ。
目をこすりながら、上半身を起こす。暗闇の中だったが、周りの登山者たちの息づかいや忍びながら準備を整える物音が密やかに伝わってきた。私もとりあえず簡単な身支度を済ませ、外の様子を見に行く。
──知っていた。ガスの中だった。雲の流れが風の強さを物語っている。
さすがに心が折られてしまいそうだった。
要は、泣いちゃいそうだった。
私、雨女だけど、ここまでツイてないことってある? ヤマテンでは霧のち晴れだって、微弱ながらも高気圧が覆うって言ってたじゃないのよう。
それがこの天気ですか!!
頭のどこかで第二の大城が「いいじゃん、ピークハントがお前の目的じゃなかろう」と言う。その声に従うように、いいのだと感情をなだめて葛藤を巡らせていた。山小屋サービスの温かいお茶をすすりながら、同行者とMTGを。
この天候で日の出を拝むのは不可能だ。ただ、日の出に合わせて行動開始をしようと。準備をし、5時半頃に赤岳展望荘を出発する。ありがとう展望荘。次は満天の星空と朝日に赤く染まる赤岳を見に来るよ。
ガスの中、急登だ。
掴む岩全てがじっとりと水気をはらみ、そのたびに冷たい手で肝を撫でられるような感覚に陥る。とにかく登る。山頂はきっとすぐそこだ。胃がぐるりとひっくり返ったような心地悪さを抱きながら。
赤岳頂上山荘に到着。午前6時半頃か。
尚も霧の中ということもあり、少々やさぐれながら「ここを私の山頂にしよう」 などという、おぼつかない玄人用語を口にする。
しばし天候を見つつ、山頂へ向かいぼんやりと白濁の世界を見下ろしていた。
「もう少し待ちましょう」
と、同行者が言った。もう少し粘ろう、粘ろうと諦めずに声をかけてくれて、私も半信半疑で岩に腰掛けていた。気付けば、先ほどよりも明るくなっている気がした。心なしか周囲の人の顔も鮮明に見えるようになっているようだ。天を仰ぐと軽やかな乳白色に変化している。
東の空にぽっかり円が浮かんでいた。太陽だ。
──あ。
私か、あなたか、誰かか。それとも、山頂にいた全員か。
青空が見えた。そして雄大な山容が音もなく出現した。正直、魔法じゃんって思った。空が青い。それだけでなぜここまで嬉しいのか。
走れガス、風よ吹け。見せてくれよ、人々を惹きつけてやまないというその姿を。
次の瞬間、眼下の雲が全て霧散する。曇りガラスを拭いたように、数分前の白濁した状態がすべて嘘だったかのように、地蔵尾根が、南アルプスが、麓がひらけた。
朧気になった小学校の記憶が蘇る。
自転車を漕いだ先に見えたその山々を。キャンプファイヤーを囲みながら歌った曲を、川の冷たさを、入道雲に支配されたかのような八ヶ岳連峰を。
子どもの頃の自分にひとつ答えられた。
「ここ、すごい場所だ」と。
目の前の景色が、水を含みすぎてしまった絵の具のように滲んでいた。
赤岳山頂に別れを告げ、文三郎尾根を降下する。急降下といっても過言ではなかろうというスリリングな下山に肝を抜かれながら。
そして眼前にはこれから向かう阿弥陀岳が見える。中山への登り返し、トラバースしながら標高を上げていくトレイルが美しい。
中岳のコルに大荷物をデポしたのは正解だった、と阿弥陀岳の岩にしがみつきながら痛感した。クリアな視界に差し迫らんばかりの高度を感じながら、黙々と登る。だが、空が青い。それだけで自然と力が湧いてくる。
午前9時50分、阿弥陀岳山頂に到着。
ここは赤岳を見るための特等席だ。人々を寄せ付けまいとする岩山が蒼天に突き抜けている。そして私はあそこから来たらしい、信じられないけど。
赤岳を背に向けると、さらに牧歌的な風景があった。綿雲が眼下に浮かび、山麓には町が広がっている。
赤岳山頂では、南アから中ア、そして北アまで一望できたが、阿弥陀岳では少々雲が出てきたためその姿は隠されつつあった。
北風が雲を連れてきて、中岳の北麓にぶつかる。雲はやる気を出して山を駆け上がり、滞留する。目の前で繰り広げられる気象劇場があまりにも壮大だった。
赤岳に背を向けると、牧歌的な風景が広がっていた。綿雲が眼下にぷかぷか浮かび、山麓に町がのびやかに続く。
長いこと山頂にいた。山行計画が多少狂う程度には、山頂に停滞していた。
というよりも、許される限りこの山頂にずっと居たかった。
山の下に溜まっている雲が、ゆっくりと山を登り、我々の下山を促す。
さあ下るか。そして歩こう、次のトレイルを。
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