渋沢栄一とパリ万博②
こんばんは!
Oshigeです( ´ー`)ノ
今回は、前回に引き続き
『渋沢栄一とパリ万博』というテーマでお話ししたいと思います!
前回の続きになるので、よろしければ読んでみてください☺️
今回は、
『渋沢栄一が歴史に名を残す原点が、パリ万博で会ったこと。』
このことについて、お話ししたいと思います。
①パリ万博の裏。幕末の日本は、、、、
②渋沢栄一の「忠誠心」
③現代の日本にまで続くが、栄一がもたらしたものとは?
①パリ万博の裏。 幕末の日本は、、、、
パリ万博で、幕府側と一悶着あった”薩摩藩”。
彼らは、一足先に帰国していました。
薩摩藩はパリ万博で
”gouvernement" と認められました。
”gouvernement" = 『国家』
そうなんです。
『幕府=薩摩』
幕府と薩摩が同等の立場として、海外では認められたのでした。
薩摩は当時、「倒幕」に向けての動きを活発化させおり、
『独立国として認められた!』という成果を持って帰ってきた
薩摩藩の人々は、倒幕へと本格的に動き出します。
【1867年10月】
幕府側の慶喜が動き出し、
「政の全てを天皇に返す」と名声を発表します。
『大政奉還』です。
【1868年11月2日inパリ】
慶喜が『大政奉還』をしたとの知らせは、栄一たちにも伝わります。
【1868年1月3日】
『鳥羽伏見の戦い』が勃発。
幕府側の人間が激怒し、日本は内戦への道を進んでいきます。
華やかなパリ万博の裏側では、
日本には暗い影が近づいていたんですね。
そんな内戦の中、
今回注目すべくは渋沢栄一の『忠誠心』です。
②渋沢栄一の「忠誠心」
【2016年】
その当時の渋沢栄一の「想い」が綴られている手紙が見つかりました。
パリにいた、慶喜の”弟の昭武”が”兄 慶喜”へと宛てた手紙。
それは、栄一がしたためた文章だとわかったのです。
そこには、慶喜への痛烈な批判が書き残してありました。
慶喜が家来を残して脱走をする姿を見て、
慶喜が間違っているかもしれない時に慶喜に意見をした栄一。
また、弟 昭武を戦いから遠ざけるためにパリに留まる判断をした栄一。
これは、全て栄一の『忠誠心』の表れだといわれています。
『忠誠心』がなければ、自分の上司に意見なんてできませんよね。
相手を信じ、自分が正しいと思ったことをする。
彼のまっすぐな人柄が伺えます。
③現代の日本にまで続くが、栄一がもたらしたものとは?
昭武をパリにとどませる判断をした、栄一。
しかし、その生活は困窮を極めていました。
幕府からの仕送りが途絶えてからは、
栄一は『資金調達』に奔走します。
鉄道会社の債権を購入するなどして、
持てる資産を全力で投資しました。
栄一が持っていたノートが残っているのですが、
そこには覚えた単語がたくさん書かれています。
栄一が必死に交渉した姿がここから想像できます。
そして、このフランスでの奔走劇の中で、
栄一は『株式会社』という概念を学びます。
そうです。
今の日本の『株式会社』はここから、始まりました。
多くの方がご存知かと思いますが、
渋沢栄一は日本の多くの企業の立ち上げに携わっています。
そんな栄一の始まりが、この体験にありました。
【1868年 5月】
鳥羽伏見の戦いから、半年後。
幕府側の彰義隊も、壊滅。慶喜も幕府に従います。
ここでようやく、栄一たちも帰国することを決意します。
その際、万博での出展品はヨーロッパで売られ、散り散りになってしまします。
150年後の今。
ヨーロッパの美術館には、
パリ万博で展示された作品たちが多く残っています。
そして、この作品たちはヨーロッパのアート界に影響を与えます。
それが、『ジャポニズム』です。
『ジャポニズム』はもっと以前から、
ヨーロッパに広まっていたかもしれませんが、
大きなきっかけになったことは間違いないかと思います。
なぜなら、
『出展作品は幕府が多額のお金を注ぎ込んで、作成を依頼した作品ばかり』
だからです。
絵師や工芸師が”用いるだけの技術”で挑んだ作品が多数あった
と考えられます。
そんな作品だからこそ、
ヨーロッパの画家たちも影響を受けたのではないでしょうか?
こんな歴史的つながりも含めて、
アートの作品に触れるのも楽しいですよね!
『渋沢栄一とパリ万博』
色んな関係性がここから見えてきました。
皆さんは一番、どこに関心が向きましたか?
皆さんの中で、ピンとくるものがあれば嬉しいです☺️
では、また!!