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『夜のミッキーマウス/谷川俊太郎』感想

全て深く読んだわけではないが、良い出会いだったので、記録しておきたい。

今まで谷川俊太郎さんの詩は国語の教科書に載っているものしか目にしたことがなかった。

その中でも最近「生きているということ」にひどく感銘を受け、詩集を読むまでに至る。

なんとなく、谷川俊太郎さんの詩は暖かいイメージがあった。(小学校の国語の教科書に載ってるくらいなので、やさしいイメージがあるのかもしれない。)

しかし、この詩集をペラペラと捲ってそこにある文字に目を通すともっていた印象がガラッと変わった。けっこうな衝撃だった。

なんとなく、暗いのである。暗いという言い方があっているかは分からないが、人間の心の奥底にあり、表面にはけっして出ないような「暗」の部分を描いた詩が多いように感じた。

それでいて、少し心が軽くなるような、不思議な世界へと連れて行ってくれる。そんな詩がたくさん。

ページを捲る度に、ペラペラとする度に新たな出会いがそこにはある。しかも、日によって目にする詩は同じでも感じ方が違うのである。

あぁ、詩っていいなぁ

と思った。

どこから読んでもいいし、心に染みてくる(心の余白を広げてくれる感覚)し、忙しい現代人に詩はぴったりかもしれない。

とくに"今日"印象に残った詩は「広い野原」と「忘れること」。

「広い野原」は物語形式で、恐らく架空の人物が語り手となっている。そのある人物の一生が、自分の一生とある部分で重なり、心に入ってくる。以下の部分とか。

いつか野原は尽きると思っていた
その向こうに何かがあると信じていた
そのうちいつの間にか老人になった
『夜のミッキーマウス 』谷川俊太郎 ,「広い野原」より


「忘れること」は、記憶力のない私にどうしても忘れてしまうということを肯定的に描いてあるところが刺さった。

以下に前半を引用する。後半はもっと凄い。(語彙力がない。)

どうしても忘れてしまう
いま目の前にある楓の葉の挑むような赤
それをみつめているきみの
ここにはない何かを探しているような表情
きみもまたきっと忘れているのだ
結局は細部でしかないこの世の一刻一刻を
そして覚えていることと言えばただひとつ
                                                                     自分が生まれていつかは死ぬという事実
それが幼い子どもが初めて描いたクレヨンの1本の線のように
ゆがんで曲がってかすれて途切れ……
『夜のミッキーマウス 』谷川俊太郎 ,「忘れること」より


そして最終部の

そして忘れ去ったものがゴミのように澱んでいる場所でしか
きみもぼくも話し始めることが出来ない
『夜のミッキーマウス 』谷川俊太郎 ,「忘れること」より

とはどういうことなのだろう。未だによく分からないし、暗く重い印象はもってしまうのだが、このザラザラ感が堪らない。

解釈を考えるのも詩の楽しみの一つだ。
ゆっくり読んでいきたい。

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