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【読書】兎の眼 灰谷健次郎 1974年

1あらすじ


 大学を出たばかりの泣き虫な女性新任先生の小谷先生は小学校1年生を受け持つことになる。そのクラスにはゴミ処理場に住んでいる子供たちがいる。その中に、一言も口をきかない鉄三という少年がいた。小谷先生は心を開かない彼とぶつかる中で教師として働く自分を見つけていく。

2作品の背景


 作中に出てくる特徴的な少年・鉄三は周りから知恵遅れと言われている。この小説が発行された1970年代は心身障害者対策基本法が策定されている。しかし、世間では障害者への理解が進んでいるとは言えない時代である。この作品にはもう一人障害を持つ女の子が登場する。少女は鉄三よりももっとはっきりした障害者で特別支援学校に通っていた経緯がある。親御ははっきり差別的な発言をする。教師は面と向かってそれに反論する。令和の現代はマイノリティの権利主張が氾濫しているのに比べて、当時は良くも悪くも対等だ。そのやり取りが現代から見れば新鮮に感じる。そこには今は希薄になった人との触れ合いの物語がある。本当に必要な教育の素養はこんな形ではないかと考えさせられるが、現代の日本の教育ではきっと取り戻せないだろう。
 作者の灰谷健次郎はもともと小学校の先生である。17年間務めた小学校を突然やめて、アジアを放浪した後に作家活動に専念した。

3読んでの感想 なんで兎の眼?


 全て読み終えた後に、きっと読者はこう思うだろう。「なんでタイトルが“兎の眼”?」
 この小説は文庫で300ページほどあるが、26章と細かく章立てされている。その章タイトルにも“兎の眼”の文字はない。正直、読んでいて同単語が出てきた記憶があまりない。1回出てきたような気もしなくもない。その程度の印象だ。そんな印象だから物語において重要ではない。
 この物語の章で1番を挙げるとすれば「23 ぼくは心がずんとした」だろう。なかなか口を聞いてくれない鉄三に小谷先生は泣きながらもめげずにぶつかる。鉄三はごみ処理場に住んでおり、娯楽はハエを飼って観察することだ。文字も書けないし読めない。しかしハエのことなら何でも知っていた。小谷先生は鉄三にハエの観察記録をつけさせる。文字の読み書きを教える。鉄三は徐々に小谷先生に心を開いていく。
 小谷先生は持ちクラスの授業を他の先生に見てもらう研究授業で変わった授業を行う。箱の中には何が入っているか、それを生徒に考えてもらう授業だ。箱はマトリョシカのように中に箱・袋が入っており、開くごとに生徒に素直な気持ちを書かせて発表させた。そして、箱の中身が明かされて、最後、オオトリの発表を小谷先生は迷いながらも鉄三を指名する。鉄三は読み上げないので小谷先生が代読するシーンがある。そのシーンで小谷先生は涙を流すのだが、読んでいる私もじわっと涙を浮かべてしまった。
 1・2でも書いたが、これは小学校を舞台にした“学校もの”“教育もの”である。内容は新任の泣き虫女教師が、同僚の変わった先生や子供たちとドタバタしながら成長する物語だ。クスッとする関西弁のやり取りは読んでいて楽しくなる。そして小谷先生が泣きそうになると読んでいるこちらもハラハラする。
 この物語は教師が子供から学ぶシーンが多く書かれている。この物語の子供たちはみんな利口で優しい。どちらが大人なのか分からなくなるほど、子供たちは毅然としていてたくましい。
 この物語を読んでいると、作者の灰谷健次郎がどのような視点で小学校の先生をしていたのか少し垣間見える気がする。灰谷健次郎は常に子供と対等にいたのではないかと思う。時に子供から多くの物を学び取っていたのではないだろうか。この小説は作者の経験と理想とが入り混じっている気がする。作者は何故勤めていた小学校の先生をやめたのか。彼にとってやめざるを得ないような壁があったのだろう。この小説は作者の教育者としての理想を昇華させたものであるように感じる。
 だからこそこの物語は美しい青春の物語として一貫している。こんな教師になれればいいよね、という理想を語っているように感じる。現代の教育現場からしたら、現場から逃げた作者の戯言のように感じるだろうか。しかし、彼にしか書けない優しい物語が書かれている。教師として持つべき優しさの形が言語化されている。その優しさに触れるだけの価値がこの小説にはあると思う。令和の今だからこそ読むべき“学校もの”小説だ。

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