中世ヨーロッパ / 封建社会の解体とローマ教皇権の動揺
この学習を通じて学べたこと
13世紀以降に封建社会が崩れていく様子と同時期にローマ教皇権が弱くなっていく過程について学習してみました。
十字軍の遠征は、西ヨーロッパでの貨幣経済をもたらしました。それらが、ヨーロッパ諸国に絶対王政を引き起こし、世俗化が進んだカトリック教会の改革へとつながることを学ぶことが出来ました。
十字軍遠征が残した歴史的変化
13世紀、ヨーロッパでは封建社会が崩れ始め、同時にローマ教皇権も弱体化していきました。この変化は、西ヨーロッパの国々が主導した十字軍遠征によって加速されました。この遠征は、東西間の交流を促し、西ヨーロッパでの貨幣流通を普及させました。これにより、農奴制が解消し、国王の税収が増加し、封建社会が段階的に解体されていきました。
商業と都市の発達
十字軍遠征の影響で、アジアとヨーロッパの間の貿易が活発になり、特に北イタリアやハンザ同盟を中心に多くの都市が栄えました。
北イタリア諸都市(東方貿易)
フィレンツェ・ミラノ・ヴェネツィア・ジェノヴァ・ナポリ
ハンザ同盟(北海・バルト海貿易)
ハンブルグ・ブレーメン・リューベック・ブリュージュ・アントワープ
これらの都市が次第に自立し、自治都市として領主層からの封建的束縛を受けない自由な立場を得ることとなります。
封建社会の解体
商業の発達により、農奴たちは貨幣を手に入れる機会を得て、自営農民へと変わりました。また、農業人口の減少に伴い、国王や領主は農民の待遇を改善しました。しかし、その後待遇の改善が逆転し、農民の反乱が発生しました。
ジャクリーの乱 / フランス (1358年)
ワットタイラーの乱 / イギリス (1381年)
国王・君主権の拡大
貨幣経済の発展により、国王や君主は傭兵を雇い、戦争の様式も変わりました。これにより、騎士の軍事的役割は低下し、封建制が徐々に崩壊し、中央集権国家へと移行していきました。
ローマ教皇権の動揺
十字軍遠征による貨幣経済の普及は、国王や君主の権力を強化し、ローマ教皇の影響力を弱めました。特に教皇と国王の間の税収問題が顕著になり、ローマ教皇の権威は大きく揺らぎました。
十字軍遠征による影響
東西交流の発展は貨幣経済への変化を促し、国家の中央集権化を進めました。また、国王の権威は強化され、教皇の地位は相対的に弱まりました。
学びを深めるためのリソース
これらの歴史的背景をより深く理解するために、佐藤幸夫先生のYouTubeシリーズ「ローマ教皇権の衰退【ゼロから世界史19講】」を視聴することをお勧めします。佐藤先生の解説は熱意に満ちており、歴史の複雑な流れを理解するのに役立ちます。
また、アヴィニヨン教皇庁について、とても詳しく書かれていらっしゃる方の記事がありましたので、こちらも是非参考にしてください。
聖職者課税問題
14世紀、国王たちは税金を使用して常備軍を養うようになり、従来の封建制度に依存することが減りました。この時代、フランスのカペー朝の国王フィリップ4世は、教会にも税金を課すことを決定しました。これに反対したローマ教皇ボニファティウス8世は、フィリップ4世をカトリック教会から破門すると脅迫しましたが、その結果、自身がローマ近郊で幽閉される(アナーニ事件、1303年)という事態を引き起こしました。
この事件の後、フィリップ4世は教皇庁をフランスのアヴィニヨンへ移し、教皇が複数存在する時代(教皇のバビロン捕囚、教会大シスマ)を招きました。
ローマ教会の改革の始まり
この時期には、ローマ教皇や聖職者の世俗化を批判する動きが強まりました。ウィクリフ(イギリス)、フス(チェコ)らは、聖書に基づく純粋な信仰への回帰を訴え、これが後の宗教改革の先駆けとなりました。しかし、15世紀初頭に開催されたコンスタンツ会議では、これらの新しい教えは異端とされ、教皇庁はローマへと再統一されました。
中世ヨーロッパを感じる観光地
中世ヨーロッパを体験するために、特にプラハを訪れたいと考えています。
プラハは、中世は神聖ローマ帝国特にハプスブルク家により支配されていました。想像以上にカトリック色の強い街ではないかなと思います。
また食事も、ジャガイモやソーセージを中心とした料理だと予想できます。それでも、プラハは、中世のヨーロッパの魅力を今に伝える貴重な場所です。
十字軍遠征が残したもの。これがこんな形でヨーロッパの歴史を変えて行ったのですね。世界史の学習により、新たな気づきと学びを得ることが出来ました。このような話題を教養として、みんなで食事をする時に共有出来たら嬉しい限りです。
最後まで読んで頂いてありがとうございます。
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?