近世ヨーロッパ / イギリス市民革命と立憲王政の道
イギリス市民革命は、国王の専制政治から議会主導の立憲君主制へ移行した歴史的転換点と言えます。この革命を通じて、議会と国王の権力バランスが再構築され、近代民主主義の礎が築かれました。今回は、その過程を学び、専制政治の背景や名誉革命に至るまでの流れを共有します。
まとめ
17世紀初頭、エリザベス女王の死後、あとを引き継いだスチュアート朝の国王は、王権神授説を強く信奉し、専制的な政治を行いました。それに反発する議会内での王権擁護派と議会独立派が争いに発展しました。議会派と王権擁護派は、市民革命と名誉革命と呼ばれる二回の革命により争いました。
その結果、一人の国王は、議会により処刑され、もう一人の国王は、国外追放となりました。そして、最終的には、イギリス王国には、議会の主権(市民の主権)に基づく立憲王政に基づく政治体制が確立しました。
イギリス市民革命を学習した教材
今回学習の参考にしたのは、ユーテラ世界史『イギリス革命と議会主義の確立』と『小学館版学習まんが / 世界の歴史 / 10 イギリスとフランスの革命』です。
これらの教材は、高校の教科書の内容に沿いながらも、疑問に答えてくれる内容となっています。これらの教材は、17世紀のイギリス社会の変遷を理解する助けとなりました。興味のある方は、ぜひご参考にしてみてください。
スチュアート朝の始まりと専制政治の幕開け
エリザベス女王の死後、テューダー朝の血筋が絶えたため、スコットランド国王ジェームス6世がジェームス1世としてイングランド国王に即位し、スチュアート朝が始まりました(1603年)。
ジェームス1世は「王権神授説」を強く信奉し、専制政治を展開。法律を無視し、ピューリタン(カルヴァン派)を弾圧したため、多くの信者が北アメリカ大陸に移住する結果を招きました。
チャールズ1世の失敗とクロムウェルの新時代
ジェームス1世の跡を継いだチャールズ1世は、議会との対立を深めます。議会から「権利の請願」を突きつけられるも無視し、専制政治を続行。スコットランドとの戦費を巡る対立が引き金となり、議会派と王党派の内戦が勃発しました(イギリス市民革命/1641年)。
議会派を率いたクロムウェルが勝利し、チャールズ1世を幽閉。共和制が樹立され、クロムウェルの指導下で新たな時代が始まりました。
内戦後、イギリス議会は次の政治体制を巡って、それぞれ主義思想の異なる三派の争いが続きます。それらは長老派・独立派・水平派の対立です。
独立派のクロムウェルは、長老派を議会から追放、また水平派を武力により弾圧します。更にチャールズ1世を処刑し、この後、終身護国卿となったクロムウェルによる独裁が始まります。
クロムウェルの功績と負の側面
クロムウェルはアイルランドとスコットランドを平定し、大英帝国の基盤を築きました。また、航海法を制定し、オランダ商人の影響力を弱め、イギリスの海上貿易の発展に寄与しました。
一方で、ピューリタン的統治(質素・倹約・勤勉の強制)が国民の反感を買い、独裁的な護国卿体制は彼の死後に崩壊しました。
王政復古から立憲君主制への大転換
クロムウェルの死後、議会はチャールズ1世の息子チャールズ2世を迎え入れ、王政復古が行われました。しかし、再び専制的な政治が行われ、国民の不満が高まります。
1688年、ジェームズ2世(チャールズ2世の弟)のカトリック強制政策に反発した議会は、彼を追放し、プロテスタントのウィリアム3世(当時オランダ提督)とメアリー2世(ウィリアム3世の妃)を迎える名誉革命を実現。この時「権利の章典」が制定され、議会主権による立憲君主制が確立しました。
スチュアート朝後のハノーヴァー朝の始まり
ウィリアム3世とメアリー2世の後を継いだアン女王が1714年に没するとスチュアート朝の血統は絶えます。遠縁のドイツ・ハノーファー選帝侯ゲオルクがジョージ1世として即位し、ハノーヴァー朝が始まりました。
ジョージ1世は、英語が理解できず、また政治への関心も薄く、議会主導の責任内閣制が発展し、イギリスの近代的政治体制が整えられました。
結び
イギリス市民革命は、専制政治から議会主導の立憲君主制への変化をもたらした重要な出来事であることがわかりました。近代民主主義の形成の過程はその他の国も同じようなものであったことも想像できます。今回改めて、未来への洞察を得るためにも、過去の歴史に学ぶことの重要性を再認識しました。