《往復書簡》 大崎清夏より⑤

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金川晋吾さま

 こんにちは!
 もう4月です。金川さんに往復書簡をいただいたのは1月で、1月に比べて世界がすっかり様変わりしてしまったことに、唖然としています。
 前回「壁ぎわの記憶」の取材でご一緒したのは3月初旬で、金川さんはすでにインドでのお仕事が危ぶまれていて(その後、延期になっていましたね)、私も札幌で3月に開催されるはずだった合唱曲の発表会が5月に延期になった後、無期限延期になってしまいました。
 経済最優先の世界では、わかりやすい第三次世界大戦は起こらないんじゃないかとは思っていたけれど、まさか未知のウイルスの出現によって、自分の生活の先行きがこんなにも不透明になってしまうとは……。

 それにしても「濃厚接触」という言葉は完成度が高くて、飲み会、カラオケ、ライブ活動にクラブ活動、私たちが愉しいことをするとき、それは濃厚接触だったのであり、そこには性的なしぐさがふくまれていたと改めて言葉から教わるようで、目から鱗でした。
 無理やり話を接続するわけではないけれど、金川さんが前回の書簡に書いてくださった越権行為の話はとてもおもしろかったです。私たちはいつも越権行為を遂行させてくれる相手を探しているのかもしれませんね。写真に限らず、すべての表現を越権行為と言うこともできるし、性的な交渉もやっぱり越権行為の試しあいなわけで、だからこそ「何を性的なこととするのかという境界のゆらぎ」に興味があるというの、すごくわかるなと思いました(たとえば誰かと作品づくりでコラボレーションしたりするようなときにも、もしかしてこの行為はセックスなんかよりずっと親密な睦み合いなのではないか?と思うことがあります)。
 おっしゃるとおり、裸だからといってそれを見ること・見られることが性的にならない場合もあるし、「裸が写っている写真」にも無限のバリエーションがありそうです。自分がイメージとして持っているいわゆる「ヌード写真」の概念が覆るような「裸の写真」を、たくさん見てみたい、という気がしてきました。

 「濃厚接触」の話に戻ると、誰かのヌードそのものに相対することは濃厚接触かもしれないけど、ヌード写真を見ることは濃厚接触にならないんですよね。「こんな状況だからこそ」といろんな人がいろんな表現をオンラインに切り替えて発表しているのを見て、私も朗読を動画で発表してみたりしたのですが、表現=技術はほんとうにどこまでも間接的になれるな、切断に強いな!という感じもあって、ふしぎな希望を感じたりしています。人類全体がロックダウンされても、きっと表現は続いていくんでしょうね。手紙や本やオンラインメディアに乗って。

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 私も実は金川さんと話しているとき、あまり「女性である私が」「男性である金川さんに対して」話しているという感じがなくて、私にとっても居心地がとてもいいのですが、それはもしかしたら金川さんの思考が、家父長制とか結婚や出産をゴールとして目指す思想とかから自由だからかな、と思ったりします。
 おそらくその土台には金川さんとお父さまの関係があるんじゃないかな、とも思います。金川さんの写真集のなかの「父」は、どこまでも「父」から逸脱していこうとする感じがありますよね。私の母は私が9歳の頃からシングルマザーなのですが、私は「愉しい家庭 without 父」をエンジョイして成長したという感覚があり、いずれにしても、家族としての決定の前提や家庭の長として父を捉えていない者どうしの会話だから、性についてわりと踏みこんで話していても、居心地いいのかもしれません。

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 政治のことで最近、私が考えていたのは「ポエム」という言葉のことです。最近、政治家の発言を「ポエム」と呼んで批判する人たちがいます。そして、それに対して、少なからぬ詩人や詩の擁護者たちが「ポエム=詩とはもっとカッコいいものである」と怒りを表明しているわけなのですが、私はこの怒りに対してかなり違和感を感じています。
 まず、そもそも「詩」という言葉と「ポエム」という言葉を混同してはならないと思うんです。政治家の発言を批判する人たちは、たとえば「文化庁の声明がポエムだ」と言うことはあっても、「文化庁の声明が詩だ」と言うことはありません。日本語の「ポエム」には、「詩」とはまた違うニュアンスが含まれることを直感的に感じとっているからこそ、批判者たちは「ポエム」という語を選択しているわけで、その直感には、きっとある種の正しさがあるんだろうという気がするのです。そして、私は自分が書いているものは「ポエム」ではなく「詩」だと思っているので、怒りもわかないわけです。
 私の怒りの矛先は、どちらかと言えば、「ポエム」と「詩」を平然と混同してしまう、言葉に鈍感な人たち、そして、やっぱりポエムのような発言をしてしまう政権であって、それは、私が多かれ少なかれ政権というものに「具体的な対策や情報」、つまり「ポエム(=言葉に回帰してゆく言葉)」とは別の発言を求めているからなのだと思います。そして、「ポエム」がなぜそういう(罵倒の)ニュアンスを含むようになったのか?ということには、怒りよりむしろ、この言葉の変遷の歴史への興味があります。
 言葉は時代とともに社会のなかで変化してゆくものなので、「ポエムをそんな意味で使うな!」と怒ってその変化を止められるものではないし、たとえ善意からだとしても、言葉狩りになってしまう危うさもあります。まあ、言葉の堕落や変わり果てた姿を嘆く自由は誰にでもあるわけですが……。
 このこと、ずっとどこかに書きたかったのですが、Twitterだと炎上してしまいそうな気がして恐ろしくて(笑)、やっと書けてすっきりしました。
 政治に対する怒りと無力感についてのお返事には全然なっていないかもしれないのですが、今日はこのへんにしようかな。また今後も政治についてのこと、やりとりを続けていけたら嬉しいです。

2020年4月4日
大崎清夏

※2020.4.17 画像を追加しました。今回は写真じゃないのですが、外出自粛を始めた頃(3月下旬?)にiPhoneで描いた落書きを載せてみました。 

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