【女子高生エッセイ】『明晰夢に魅せられて💭』
朝目覚めるといつも私を襲う光がある。
私は明晰夢を見ることが多い。
比べたことはないが人の3倍ほどにはなると思う。
私にとって夢とは、私の中にある記憶のかけらにふれ、構築されるものだ。
だから見ていて多少恥ずかしい時もある。
最近、明晰夢を見るたびに私を現実へ誘う光が必ずある。
ただの太陽光ではない。
何か不思議な暖かさと冷徹さ、希望と儚さを兼ね備えたそんな光。
朝一番に体験するこの光は私を冷たい現実へと導く。
私はこの冷たい現実へと目覚めたことに大きな寂しさと少しばかりの安心感を味わう。
明晰夢から起きることのできない怖さを私は誰より知っている。
その割に人間は馬鹿なもので目覚めたしまいには夢の世界へ戻りたいと願う。
夢は有限だから素敵な世界だと言うのに。
さて、私にとっての夢が記憶のかけらというのはどういうことか説明しようと思う。
私が今まで見てきた夢、全てどこか懐かしさを感じる。
実際に体験したことない話ばかりが夢のストーリーの大筋となってはいる。
だが、登場人物やメインテーマの場所には誰もが記憶を投影しているものだと思う。
例えば、小さい頃私はよく何者かに追いかけられる夢を見た。
ナイフを持って私を家まで追いかけた。
相手は顔が真っ黒に塗りつぶされていて誰かわからなかったが、きっと自分のことを嫌いな漠然とした誰かという認識はあった。
私は子供ながらに、ナイフというものに特別恐怖心を抱いていた。
鋭利な刃先や、鏡のように自分を映す色や形にいつしか自分の心臓が貫かれるのではないかといつも妄想をしていた。
だから私は夢の中でもっとも私が怯えるようにナイフを凶器に采配したのだろう。
また、私は小学生の時に死というものを本当の死の形よりも大袈裟に畏怖していた頃がある。
きっと誰しもそういう時期はあるのだろう。
部屋の天井を見つめながら自分はいつ死ぬのだろうか、どうやって息を引き取るのだろうかとよく考えたものだ。
その時期にはよく母方の祖父が夢に出てきた。
祖父は私が物心ついた頃にはもう亡くなっていた。
私にとって祖父は初めての死の象徴であり、死の形と感じていた。
そんな祖父が私の夢に出てきては、何度も病死していくところを私が泣きながら看取るというシーンが繰り返された。
そんな風に、夢は人の底にある恐怖心を呼び起こすものだと思う。
ただ、人間は良い夢も見る。
私は自分自身の良い夢は夢ノートならぬものを作って書き留めているがこれが実に楽しい。
人は自分の置かれた環境で常に自分にとって都合の良いことはどれかを判断する力を持っていると思う。
私は自分の夢を記録することでそれに気がついた。新学期の浮かれた気分の際には私は自分が学級委員長になる夢を見た。
はたまた、習い事の発表会の前日には、自分が一番良かったと先生に褒められる夢を見た。
それらは私の記憶の中の似た状況の際に、私が一番嬉しいシーンと擦り合わせてあるのだろうと思う。
そんな記憶のかけらを繋ぎ合わせたパズルのような世界で私が意識を持ち出した(明晰夢を見るようになった)のはここ一年のことだ。
私はこの一年の間に、私自身の現実的な姿をはっきりと捉えるようになった。
悲しい夢を見るたび自分の恐怖心によるまやかしだとか、いい夢を見ればこんなに私はすごい人物ではないだとか夢の中でも言い訳をするようになった。
ある意味、夢の世界の私が現実と夢を無意識のうちに重ね合わせ、この私は私ではないと言い張っているのだろう。
そうして私はほぼ毎日のように夢の中で夢を見ているのだと気づくのである。
そんな夢の世界から救い出してくれるいつもの眩しい光は私にとってきっと必要不可欠なものである反面、私が私をはっきりと捉えられなくなる引き金にもなる。
そんな光を感じるたびに今日も頑張ろうという普遍で何の面白味もない言葉が口からこぼれ落ちるのだ。
私はそういう普通の朝が大嫌いで大好きだ。
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