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◆読書日記.《藤田健治『ニーチェ その思想と実存の解明』――シリーズ"ニーチェ入門"13冊目》

※本稿は某SNSに2021年6月6日に投稿したものを加筆修正のうえで掲載しています。


 藤田健治『ニーチェ その思想と実存の解明』読了。

藤田健治『ニーチェ その思想と実存の解明』

 1904年生まれの哲学研究者によるニーチェ解説本。1970年初版だから、半世紀ほど前の出版と言う事となる。

 と言う事で若干情報が古いんじゃないのかな?という部分も見受けられた。

 というのも、本書ではニーチェの妹のエリザベートについて、一貫してニーチェ思想を伝える最大の功労者といった感じで紹介している部分が見られるのである。

 1970年当時がどうだったかは知らないが、昨今ではエリザベートはニーチェの思想を当時の国家権力であるナチスに気に入られるように改竄や恣意的な編集を行い、自らのニーチェに関する回想についても歪めて伝えていたという事が分かっているので、彼女の言っている事は眉唾物として扱わなければならないというのが大方の見方であるはずだ。
 エリザベートはニーチェを崇拝していたから、ニーチェを実際より偉大なものとして伝えたかったのだろう。

 ぼくが思うに、エリザベートは典型的な権威主義者だったと見ている。

 ニーチェが絶対的なものであったのならば、彼の考え方をわざわざ国家権力に気に入られるように歪める必要はないはずである。
 本当にニーチェを信頼しているのであれば、改竄などするのは「聖典を歪める」タイプの禁忌であったはずである。

 ニーチェという権威に阿り、ニーチェの死後はナチスという権威に阿って今度はニーチェの著作を歪めてしまった。
 そこに「ニーチェが真に望んでいた事は何なのか?」といった事に考え及ぶ事はなく、時の権威に認められ、ニーチェの権威が更に強まり、それを信奉する彼女自身が満たされれば、それで良かったのだ。

 本書でも紹介されているニーチェ晩年の著作『権力への意志』は、そんなエリザベートがニーチェの死後、彼の遺した様々なメモや覚書からナチスに気に入られそうなものをチョイスして気に入られるような編集の仕方で"でっちあげた"著作であると言われている。

 だから『権力への意志』を紹介するにしても、専門家でもない人向けにニーチェの著作の内容を紹介する上では、そういった但し書きはしておくべきだろう。

 藤田健治ほどの人物がそういった気遣いさえ出来ない無能とは思われないので、当時はそういった見方はされていなかったのかもしれない。

 という事で本書の情報は少々「古い」という事なのだろう。

◆◆◆

 さて、日本におけるニーチェの解説本というのは割とどれも似たような内容になってしまうものだが、問題はそこにどういうアプローチやどういう視点を入れるか、という点であろう。

 何しろ、象徴表現や寓話やアフォリズムといった形でを語る事の多いニーチェである。様々な解釈が可能なように書かれた著作が多いのだ。

 例えば、『図解雑学ニーチェ』の著者・樋口克己は、本書の著者・藤田健治の本書の内容について「ニーチェの哲学は螺旋状に発展する、という捉え方は、この本から教わりました」といった事を言っている。
 この「螺旋状に発展する」という捉え方は、確かに本書の著者の特徴的な考え方かもしれない。上手い言い方だ。

 ニーチェの著作は初期から晩年に至るまで、けっこう似たようなテーマが出てくる事が多い。
 処女作の『悲劇の誕生』に出てきた「ディオニュソス的-アポロン的」の考え方については以前も説明したように、晩年の考え方にも応用されているし、道徳批判、ニヒリズム、キリスト教批判などは、どの著作でも頻繁に言及される。

 だが、これらは全く同じ内容の事を言っているのではなく、時に視点を変えて、時に言及方法を変えて、または若干内容を変えてみて、それぞれのテーマが内容を少しずつアップデートされていく。

 新テーマを取り上げ、過去のテーマにも言及して、行きつ戻りつ、「アフォリズム」という形式で少しずつ少しずつ断片的に語っていく事からいつの間にか情報がアップデートされていく。
 そういった発展プロセスを称してニーチェ哲学の特徴を指して樋口は「螺旋状に発展する」と表現しているのだ。

 この方法は通常の西洋思想の伝統的な哲学者の著作のように「このテーマについてはこの著作で思想を限界まで突き詰めて語りつくす」といったような構築的な考え方とは全く違っている。
 ニーチェはどうもそういった思想的な"重さ"や徹底性といったものを忌避していたようでもある。

 『ツァラトゥストラはかく語りき』でも、主人公のツァラトゥストラは「重力の魔」を嫌い、歌い、踊り、軽やかに飛翔する事を望んでいる。
 ニーチェの思想もそのような「軽やかなもの」を志向していたのである。
 そういうニーチェの思想が「アフォリズム」という二-チェ特有のスタイルに反映されているのだ。

 藤田健治による本書の解説本としての特徴と言えるのは、ニーチェ思想の影響関係について、19世紀ヨーロッパの思想史的な流れの中から理解しようというスタンスである。

 ニーチェについて良く言われるショーペンハウアーとワグナーからの影響というのも当然言及されているが、それ以外にも19世紀ドイツ観念論の開拓した土壌から、ニーチェ的な考えがどう発生していったのかと言うのを考察するくだりはなかなか興味深い内容となっている。

 19世紀ヨーロッパでは"理知の光によって迷信の闇を照らし出す"啓蒙主義の頂点として現れたヘーゲル思想に圧倒的な人気があった。

 その反動として19世紀後半から反ヘーゲル的な動きが始まると言われている。シェリングやフォイエルバッハもそうした流れの中にあったし、またブルクハルトやキルケゴール、マルクスまでもが「ヘーゲルの乗り越え」を自らの思想の重要な位置に置いていた。

 その中でもニーチェは最もラディカルだったと言える。
 ニーチェは常に新たな思想を求めていたし、常に固定概念や既成道徳の転覆を考えていた。

 ニーチェの批判は、単に既成道徳を破壊するためのものではなく、常にそれによって新しい価値観を作り上げるためにあった。

 人間は、常に乗り越え、新しく切り開き、創造し発展し続けるべきだという考えたあったのだ。

 そういった考え方がつまりはニーチェの「超人思想」まで行きつく事となるのである。

 ニーチェの思想は様々なテーマを断片的に、バラバラに言及していくばかりなのでとりとめのないイメージを抱きがちになってしまうが、けっこう色んな所で緩く繋がりあって其々のテーマが影響しあっているのが面白い。

 本書の題名には副題に「その思想と実存の解明」とあるが、以前からぼくはニーチェが「実存思想」の枠組みに入れられる事に疑問を持っていたものだが、今回は本書の内容でやっと納得がいったように思える。
 結局ニーチェは「文明論」や「一般的認識論」や「宗教論」等とは近いようで遠い所にあったのだろう。

 ニーチェ思想は「宗教はどうあるべきか?」というスタンスの考え方で捉えると、見方を誤るかもしれないという事である。ニーチェは「宗教の事を"私"はどう見るべきか?」といった事を暗に言及しているからこそ実存的なのだろう。

 だからこそ、キリスト教徒に対して「無神論者になるべきだ」と言っているのではないのだろう。
 そして、もちろん権力者についてとか政治家についてとか、そういうものの「一般論」を述べているというわけでもないのであろう。

 ニーチェの思想にはいつもどこか「どう生きるべきか?」というテーマが背後に流れている。
 だからこそ「実存的」なのだ。

 エリザベートはニーチェ思想のそういう根本を理解していなかったからこそ、ナチに気に入られるような改竄を行ったのではないだろうか。
 ニーチェの思想は他人に対してどうしろこうしろと言うものではない。ニーチェ思想は常に自分自身に対して「〇〇であれ」と、自らを律する哲学だったからである。


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